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世界を旅して見えたもの

解決ではなく調和を

 「地球のエコシステムの維持」のためにできる最善を考えたいと、世界を見ようと思って始めた旅。六年の歳月の中で見てきたもの、感じたこと、考えたことはどのような形でも表現し切ることができない。しかし、その全てに対して痛感したこと、それは「全てが繋がっている」ということだ。
 地球のエコシステムの維持のために必要なことは、環境の保護だけではない。政治、経済、宗教、格差、戦争、その他あらゆる問題や事象が含まれている。それら全て同士が密接に関わり合っているのだ。
 一つの問題だけを取り上げて「解決」することは出来ない。何か問題を解決したように見えても、根本的な原因はそこにはないかもしれない。何か部分的に変化を起こせば、どんな副作用が生じて、関わるものにどんな影響を与えるか分からない。
 それらの現象全てを認識できる人間はいない。それゆえに、あらゆる問題を同時に解決することなど人間に出来はしない。つまり、今地球のエコシステムが崩壊に向かっているとしたら、それを維持することは不可能に近いほど難しい。少なくとも、そのための具体的なプランを立てられる人間は存在し得ない。

 プランを立てられる人間が存在し得ないなら、テクノロジーを用いてプランを立てられる存在を作ればいいのかとも考えた。世界中のあらゆる事象をリアルタイムでモニタリングして情報を集積し、AIによって環境から人間の社会まで、最適化した総合的プランを立てられれば解決するかもしれない。
 しかし、それはどう考えても恐ろしい結果にしかならない。人間に立てられないプランをAIに立ててもらうとしたら、そのプランの意図を我々は理解し切れない。ということは、理由もわからない行動を強制される事になる。複雑な万象を織り上げたプランなので、求められる実行の正確性も極めて高くなる。つまり、個人の自由が一切許されない社会になる。生存したいとはいえ、そんな世界を我々は生きたいのだろうか。そんな訳はない。

 ならばどうすればいいのか。まず、「解決」を放棄する必要があると思う。そもそも解決の定義も不可能なのだ。日本人にとっての解決は、他の国の人にとって損になるかもしれない。人間にとっての解決は、他の生き物にとっての地獄かもしれない。その上、「解決」という「一つの状態」を目指せば、達成難易度はほぼ不可能レベルまで跳ね上がり、それを目指す過程も、達成後も、自由も権利もない世界になる。

 では、我々は「解決」を手放して何を目指せばいいのか。「解決」は、「所有」して「コントロール」しようという姿勢の象徴である。環境問題を解決しようとするのは、自然界を人間の所有物としてコントロールしようという取り組みである。そこに無理があるのではないか。自然界は我々が所有して責任を持って管理できるほど単純な代物ではない。人間は自然を破壊できるからといって、人間の方が高次元の存在であるということにはならない。我々は地球のエコシステムの偉大さを認め、そこで生かされるという立場を明確にする必要があるのではないか。
 我々が「解決」と「コントロール」という〈ゴール〉を手放して目指すべきは、「共生」と「持続可能性」という〈道〉なのではないだろうか。

 自然界を所有し、コントロールするのではなく、我々が繋がり、我々を生かしてくれている自然界のあらゆるものと共生していくことが必要なのではないか。人々同士も、自然界のあらゆるものとも、ニーズを聞き合って、寄り添い合う姿勢が必要なのではないか。すでに絶妙なバランスで成り立っていたエコシステムの一部を人工的なもので代替えし、バランスが崩れればさらに代替えして対応するというのは問題を拡大していくだけである。進歩や経済成長よりも、持続可能性を主眼に置く必要がある。

「共生」と「持続可能性」というキーワードで世界を見ながら考え抜いた結果、二つの鍵が見えてきた。それは「心の教育」と「文化」である。

     《心の教育》
 自然との共生、それはロジックで出来ることではない。例えば「生き物を大切にする」などのことはルールによって定義づけして実行しようとしても、時と場合によって必要な行動が多様すぎて、ルール化しきれない。必要なのは、自然を愛し、感謝し、大切にしようとする心。その心を指針にし、知識を広げて知恵を深め、臨機応変に生き物との共生を目指していくしかない。人との関係も同じことだ。法律があったとしても、平和を願う心や人を愛する心がなければ、法律も悪用されるだけである。人や社会は、本質的には心によって動かされている。ルールや法律はあくまで補助輪に過ぎない。もしも人々の心が修養されさえすれば、補助輪がなくても、ほとんどの問題が同時にいい方向に向かっていく。だからこそ、人と人との共生や人と自然の共生のために、「心の教育」が鍵となる。

     《文化》
 持続可能性、これはテクノロジーを用いてデザインしきれるものではない。人間の科学力では到底成し得ない。一つ一つの問題を解決していこうとしても、それは対症療法にしかなり得ず、どんな副作用を引き起こすか分からない。だからこそ科学の発展は実験に支えられてきた。理論だけで完成したテクノロジーは一つもない。失敗を繰り返し、技術を発展させてきた。小規模な技術ならそれでも致命的な出来事が起こらなかった。しかし現代では、原子力、遺伝子工学、宇宙工学、情報工学など、これまでとは桁違いのエネルギーを扱っている。失敗が生態系全体に致命的なダメージを与えうる。これ以上規模の大きい技術を、実験と失敗を通して発展させるべきではない。リスクに見合う必要もないのだから。
 ならばどのようにして持続可能性を実現するのか。その鍵が「文化」である。現代では文化は非実用的と見做されることが多い。それは近代化が原因である場合が多い。世界中が経済で繋がり、世界のどこかで大量生産をし、世界中で似たようなものを消費する。その仕組みに最適化するために、既存の生き方は捨てられてきた。しかし、持続可能性を考えれば、文化ほど実用的なものはない。文化はその土地で生きる人々が何万年という時間をかけて磨き抜いてきた、その土地と調和して生きるための知恵の結晶なのだ。その土地で手に入る素材でいかに衣服を作るか。その土地でどのように食料を調達するか。の土地の資源でどのように建物を建てるか。そして、如何にそれらを持続的に行うか。すでに徹底的に実験が行われ、成功した文化だけが現代に生き残っている。
 このまま、大量生産、大量消費を続けることは出来ない。必ず持続可能性が必要とされてくる。その時に最も価値を発揮するのがそれぞれの土地で育まれてきた文化なのだ。ただ以前の生活に戻るという話ではなく、まずその価値をしっかりと認識し、その文化を土台として現代に合った文化をデザインしていく必要がある。

     日本の可能性
 世界中で文化を見直し、心の教育が行われることが必要とされている。どうすれば世界にそのような流れを生み出すことが出来るのか。そのために、日本が担える役割は非常に大きい。
 文化という観点で見れば、日本は世界で最長の国家としての歴史を持っている。島国であったこともあり民族の入れ替わりも比較的少ない状態で文化を醸成してきた。その結果、世界でも類を見ないほどに高度な持続可能な社会を実現してきている。
 近代化は西洋化という形で行われてきた。そしてそれは、しばしば押し付けるような形で進められてきた。そのため、西洋諸国が文化の見直しを発信しても説得力が弱い。しかし、西洋以外の国で発信力のある国はそれほど多くはない。その中で日本は、文化をある程度保存しながらも、非欧米国で初めて先進国になった国である。その上、世界で最も多くの国にビザなしで渡航できるという点から見ても世界で最も信頼されている国の一つでもある。
 そして、「心の教育」という点においても、日本は「和の心」に象徴されるように、調和し、共生するという精神文化を持っている。それは島国で限りある土地や資源と、周りの人々と共に生きてくる中で培われたものであった。現代では、地球全体が一つの島国のような状態になっている。その中で昔大陸で行われてきたような、異民族の一掃や、土地を枯渇させて移住するという戦略は取れない。日本で培われた共生と持続性を目指す「和の心」が世界に与えられ得るものは非常に大きい。

 日本は、今世界が必要としている変化の要になりうる国なのである。日本はその歴史的、社会的背景を活かし、文化を土台とした持続可能性において最先端の実践を行える可能性を秘めている。そして、その根幹となる心の教育においても世界に貢献できる。
 もしそれが実現すれば、世界に貢献できるというだけでなく、日本にとっても非常にメリットが大きい。国家の方針として、これまで軍事大国、経済大国と歩んできたが、もうその道に未来はない。このまま世界中が経済大国を目指し続ければ人類全員共倒れになる。仮にそうでないとしても、もはや他の経済大国にその道で勝ち目はない。ならば、次の新しい価値で世界に必要とされるしかない。人類全体に貢献する国として認められれば、軍事力や経済力に頼らない国防も不可能ではない。
 クオリティオブライフが向上し、より幸福度の高い生活ができるようになる可能性も高い。このような形で世界に貢献できる仕事が増えればやりがいもある。
 日本が、環境と心の教育における先進国としての方向を明確にして邁進すれば、世界にとっても日本にとってもいい状態を作っていける可能性が高いのだ。

     戦争と平和
 戦争の問題も、環境問題と並んで地球のエコシステムの維持」のための最大の不安要素となっている。しかしなぜ、人はこれほどまでに争うのか。経済、国家、宗教など様々な理由が考えられる。一つ一つが深い議論を要するが、それらの根底にあるのは人類の精神パターンであるように思う。その精神パターンとは「臆病」というものである。表面的な理由は様々だが、それらの理由に対して臆病であるがゆえに恐怖し、攻撃的になり、争いになる。その臆病さは明らかに必要以上である。
 ではなぜ人類はそれほどまでに臆病なのか。それは、我々がその臆病さによって生き残ってきたからである。我々が人類となってから約500万年間の内、ほとんどの期間我々は弱者であった。逃げ隠れしながらなんとか生き延びてきた。それゆえに、脳がそうした環境でも生き延びられるほどに臆病に出来ているのだ。そのような背景がありながら、人類は言語を得て、農耕を覚え、宗教を作り、群れを異常なまでに拡大し、自然を圧倒した。現代では、かつてほど自然を恐れなくても良くなった。つまり、日常においてそこまで臆病である必要がなくなった。しかし、遺伝子は数世代では変わらない。その恐れを自然界ではなく人間同士で向けることとなった。それによって、人間はお互いに警戒し、お互いに攻撃し、結果生まれ持った臆病さを有効に活かすこととなった。
 しかし、人類全体で恐れを乗り越え、共に武器を納め、共生の道を模索すれば、人類の生存は信じられないほど容易になるだろう。分け合えば余るのだ。
 この問題を解決するためにも、「心の教育」と「文化」の果たすべき役割は大きい。

     《心の教育》
「臆病さ」を乗り越えるためにも、心の教育が必要である。しかし、遺伝的にそう感じてしまうようになっているものを変えるのは難しい。この点においても恐怖を乗り越えて信頼関係を構築し、調和していくという観点で「和の心」の果たせる役割は大きい。

     《文化》
 臆病さが最も発揮される瞬間は、未知のものや異質なものに対してである。大航海時代以降、各地の文化が破壊されていったのは未知の文化への恐れも一つの要因であった。しかし、これからは持続可能性のためにも各地で多様な文化を再度開花させてゆく必要がある。その時に文化教育が重要になる。自国の文化を知り、他国の文化を知る。多様性を認め合い、尊重し合い、楽しみ合う。そんな世界を創ってゆく必要がある。文化を平和の土台にしていくのだ。

 これら二つの上に、さらに日本に貢献できることがある。調停者としての役割である。人の心を察する力、全体をよくしようとする意識、そして、世界からの信頼。そして、世界で唯一実戦において核爆弾が投下され、以降戦争の放棄を宣言している。日本ほど平和のための調停者に相応しい国はない。

     日本と人類
 日本だけが素晴らしいわけでも、日本だけが人類の未来に貢献できる訳でもない。それぞれの国の持っている力を活かす道があり、それぞれのやり方で取り組んでいく必要がある。しかし、世界の流れの中で歴史上これほど日本が世界に大きく貢献できる可能性があるタイミングはない。今こそ、我々の力の見せ所である。

僕は夢見ている。
日本人が前向きに、生きがいを感じながら世界に貢献していく姿を。
日本が文化や和の心を活かして環境先進国となり、世界に知恵を分ける姿を。
日本が文化を通して平和に貢献し、和の心を活かして争いを調停していく姿を。
そして、
世界中で人々が自然を愛し、感謝し、調和していく未来を。
人種や国籍や宗教などの多様性に対する恐れを超えて尊重し合い、活かし合う社会を。
人と人、人と自然が調和し、共生の道を歩み続ける社会を。

果てしない道だ。
実現の可能性は高くないかもしれない。
しかし、それでも目指し続ける。
我々が生きるのは、結果の一点の中ではなく、目指す過程の道の上なのだから。
もしもあなたと、共に目指すことができれば嬉しい。


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