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なぜ私たちは無駄な移動を求める?

移動を考えることは、求められている空間・体験の意味を考えることと同義であると感じている。つまり物理的な空間の存在意義にもつながるため、建築を学ぶ人間としてとても重要なことであるはずだ。それに加えて、最近はデジタル上で会話することは当たり前になり、その形態はテキスト情報から画像、そして動画へとその舞台を移してきた。これはより現実に近い形で、遠くに存在する人とのコミュニケーションを取りたいという欲求に基づくものであるのだろう。

このようなことを考えていくと、仮想空間はますます現実に近づき、私たちの移動する理由とその原動力を理解することが重要になる。

1. 無駄なことは趣味になる

すでに「モノ消費」から「コト消費」、「トキ消費」そして「イミ消費」へと時代は流れている。これが意味するのは私たちが求めているものの「機能」というものがそろそろ充足しているということなのだろう。

博報堂/アフター・コロナの新文脈


少し見渡してみれば「機能」の重視よりも体験価値とそのエモさ/唯一性に惹かれる体験が思い出されるだろう。

レコード(音を蓄音し、再生する)
乗馬(疲れずに、移動する)
年賀状(一年の挨拶を一人一人にする)
チェキ(手軽に写真を撮影する)

このようなことを見てみると「機能」を満たすという観点からは、より早くそして労力を軽くしたものがすでに私たちの周りには存在している。一方で、わたしたちは上記のようなものを欲するようになり始めている。これは私たちが体験自体にもエモさやストーリーなどの「意味」を求めているということなのだろう。


2. なぜ無駄なことを求めるのか

私の仮説としては不確実性があり、自分自身でストーリーを紡ぐことができるといった特性があるのではないかと思っている。つまり、初めから答えが与えられているのではなく、またその置かれた環境などによって自分自身で発見・気がつくといったことである。

なぜ私たちが自分自身で発見・気が付くことに対してより強く惹かれているかは昨今のアルゴリズムの発達も一つあるだろう。何をググってもすぐに最適そうな答えを導き出し、そしてどこに行こうにもインスタなどでその場所を事前に調べきってしまい、私たちは十分に満足感が得られていないのかもしれない。

海外の最新ビジネスやカルチャートレンド、オススメの本や映画について扱うニュースレター「Lobsterr Letter」では「Human Curation」としてこの題材を扱っていた。

アルゴリズムによるレコメンデーションはユーザーが求めている情報を効率よく提供することに定評があるとされている。もちろん、人によるキュレーションにもその側面があるのだけど、それ以上に、受け手の価値観やパースペクティブを優しく揺さぶることに本質的な価値があるのだろう。

メディアやブランドの世界観を大切にしつつも、それだけに固執せずにゲストから見えている視点を柔軟に重ね合わせて、自らのパースペクティブもひろげていくこと。そんな試みをロブスターでもやっていきたいと思っている。

Lobsterr Letter /vol.155

↓こちらのnoteの記事にも、ユーザーの気持ちと自分の判断に対してどのように納得するのかという体験がまとめられている。

3. 不確実性との出会い/発見

原研哉さんの考える「日本のラグジュアリー」に対する考えがこのヒントとなるように感じている。

古代から中世にかけて価値の頂点に王様が君臨していた時代は、権威を表象する豪華絢爛こそがラグジュアリーであるとされてきました。近代以降になると王の時代は終わったものの、西欧では王が独占していた豪奢を、今度は資本家や富裕層が求め庶民はそれに憧れを抱きました。

しかし日本では状況が異なります。応仁の乱で都が荒廃し、足利将軍は京都東山に銀閣寺を建てて隠遁。大きな文化的喪失を経て、京都東山に新たな美の基準が生まれました。それは、いわば「『何もない』が格好いい」という、それまでの渡来ものの絢爛さを賛美していた価値観をリセットしていくことにつながり、ここから日本独特なラグジュアリーが生まれました。

「空」という概念が、書院や茶室といった建築にも庭園や絵画にも生かされ、豪華に埋め尽くすこととは真逆の発想がなされています。自然をコントロールするのでなくどう生かすのか、よりマイルドな発想が根底にあります。だからこそ、多様に多くのものを受け入れることができる。そこに日本の価値の鉱脈が眠っています。

トラベルジャーナル

つまり、引き算された環境の中から、ユーザー自身がその文脈から価値を読み取るということである。確かに簡単に理解することはできない(ぱっと見でインスタ映えするから良いということではない)が、関わり方のデザインとして新たな発見・出会いを生むためにはこのような考え方が必要なのではないかと考えている。

一方で現在の状況を考えてみると、都市にはあまりに消費を促す短絡的な空間が多いように感じられる。特に観光地や商業地域には、そのストーリーを考えさせる余白がない。つまりは冒頭で述べた「機能」が先行している状態に感じられる。したがって、今後さらなる仮想空間が発達した際に、その優位性を次第に失ってしまうことにつながるだろう。(無論、身体性についてはフィジカルな空間の優位さが残るが)

4. 消費を促し続ける街と限界

建築空間における無駄や余白とは何なのであろうか?私たちは現在の街においては消費者になる局面が多いように感じられる。特にここまで述べている観光地や商業地域においてはその傾向が顕著であると感じている。この原因として考えられるのが、すでに街がユーザー(アクター)の行動を制約してしまっていることに起因していると考える。つまり、ユーザーは自分自身の手で発見・出会う機会を作り出すことが難しいということである。

このような状況になった理由としては、過去の状況が悪かったこそ、成功した人々がユートピアを形成してしまったからと考えることが出来るだろう。

例えばこんな事例がある。

MIT/Building 20

MITのBuilding 20は「仮設の建物」として第二次世界大戦後に作られ、研究棟として扱われてきた。ボロボロで断熱性能も悪く、あくまで一時的なものの予定であったが、結果的にこの建物から9人のノーベル賞受賞が生まれた。それはボロボロなものを自分たちで修繕し、迷路のようになった内部を散策することで、他の研究室の人と出会うという体験が日常的に生まれていたからだ。

本当にイノベーティブなのか?

このほかにもシリコンバレーの例などもそうであろう。現在のApple、googleなどの社屋は「イノベーティブ」な空間として表されるが、彼らのような多くのスタートアップが生まれてきたのは家の隣にあるガレージなのだ。つまり、今ある「イノベーティブ」な空間というものは成功者のイノベーションを生む空間としてのある種のユートピアと考えることが出来るだろう。結果的にユーザーに対して、何らかのメンタルモデルを生み出し、単なる消費者としての行動を促してしまっている可能性が考えられるだろう。

さらにもう一つ考えられる「消費者」の振る舞いについてあげてみよう。

「外したくない」という思いから生まれる無駄の排除と消費の強化

ググる影響について冒頭でも述べたが、このような影響は映画の早送りなどにも見てとれる。彼らは失敗したくないという思いが強いと筆者は述べている。確かに自分自身も、出来る限り面白そうなものを事前にYouTubeで検索してからみるという動作をしている。さらに講義も早送りにできるものであれば早送りにすることもしばしばある。(「タイパ至上主義」として表現されている現象)このようなことは「街をググる」精神ともつながっているであろう。そこには探索し、出会うという機会を失っているというように考えられ、街自体も目的地というものがより強く生まれ「消費者」としての振る舞いを強化することにつながってしまっているのであろう。


5. アクターとしての消費者へ

ではどうすればこのような状況を変えることが出来るのであろうか?この解決策としては、複雑な要素の中でユーザーが価値を見出し、自分なりのストーリーを作りだすことが一つの鍵になるのではないかと考えている。そして結果的に①ユーザー自身がアクターとなり、街の演出に貢献すること②ユーザー自身が生産者となり関与することが出来るようになり、アクターとして振る舞えるようになるのではないかと考えている。

いくつか自分の考える例を挙げてみたい。特にユーザーの読み取る活動自体が、今後の発展に貢献するようなものを挙げてみる。

Food Studio

都市部では資本経済の影響が明らかに強く、なかなかこのような取り組みはまだみることができないが、このような活動が広がることによって場所の価値というものは長期的にみて高まっていくのだろう(単にインスタ映えするとかオシャレだからということではなく)。

このように、「トキ消費」とも読み取れる活動が、自分自身にしか生み出せないストーリーを生み出し、そして「無駄な移動」を生み出していくのではないかと思っている。そしてその活動自体が未来を作り出す、「生産者」としての振る舞いになることによって街に個性と活気を生み出すのだろう。

次回以降では移動の歴史などを上げながら、これからの移動によってもたらされる社会の変化を考えていきたい。


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