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離婚に善も悪もない

離婚したことがある方も、周りに離婚した人がいる方も、そうでない方も。

ぼくはずっと「離婚は悪」だと信じて生きてきました。世間でも、ニュースやドラマで散々悪者扱いされているし、誰もがその価値観を当たり前に受け入れていたし、

何より、子どもの頃に経験した「両親の離婚」という出来事は、当時のぼくにとって、世間で言われていた通りのリアルな「悪」そのものであり、人生における苦難の1ページとして、深く深く刻まれていたからです。

それが「どうやらそう単純な話ではないらしい」と理解できたのは、いい大人になって、自分自身の両親に対するわだかまりが解けてから。そして、仕事で離婚の相談を受けるようになってからでした。

「冷めたら別れる」という結婚観

先日、オーストラリア在住のある方から、興味深い話を聞いたんですね。それは、オーストラリアの結婚観の話で、現地の夫婦は基本的に「冷めたら別れる」のだそうです。ときめきを失い、感情を失ったら、離婚するのだと。

それに比べて、日本の夫婦は当事者同士が愛情を失っても、コミュニケーションをなくしても、形だけの婚姻関係にこだわりやすく「なんでこの人たちは、今も一緒にいるんだろう?」と映るのだとか。

どの国のどの結婚観が、正しいとか間違っているとかではありません。
とはいえ、少なくとも日本は「形だけ」であっても耐え忍ぶ、あるいは、やり過ごす、あるいは、しがみつこうとする結婚観が一定数あるのだなと。

そういう時、いかにもまっとうな理由が見つかるものです。子どもに良くないから。世間的なイメージが悪くなる。経済的に今すぐ自立するのが難しいもの。親になんて言われるか…。

肝心の当事者たちの、一人ひとりの本当の気持ちは優先度を下げられ、後回しにされ、押し殺されてしまうのかもしれません。

そうして、仮面夫婦であることを選び、時には、不倫や浮気という「逃げ」に片方(双方)が走る…なんてこともあるのでしょう。

「卒婚」という形

最近、別の友人がSNSで「私たちは卒婚することにしました」という報告をしていたんですね。後日、その友人と直接会える機会があり、酒を酌み交わしながら、差し支えない範囲で話を聞かせてもらうことができました。

友人いわく、離婚に向けては、その決断が自分たちそれぞれと、我が子の幸せにとって「最良の選択」であると、2人の答えの足並みが揃うまで、元パートナーさんと徹底的に話し合われたそうです。

話し合いには、とてもエネルギーを費やされたことでしょう。そして、当事者同士が納得できたとしても、それぞれの両親や家族に報告・説得しなければならないというハードルもあったはず。

それら1つ1つを逃げずにクリアしていった先に、「離婚」ではなく「卒婚」という言葉がありました。2人が出会ったことも、一緒に過ごしたことも必然でしかなく、1人では迎えられなかった転機もご縁もあった。

やりきった。学び尽くした。お互いがお互いの幸せを願い続けることができるように、婚姻関係は卒業するけれども、今も、相手のことを愛している。

もちろん、2人が今も一緒にい続けられるのなら、それに越したことはなかったかもしれません。その未練が、心の奥にあるかどうかはわからない。

しかし、一緒にい続けることは難しい…という現実に直面して、それでも相手を悪者扱いせず、責めることもなく、友人自身も自責の念にかられることなく、選んだ決断だった。

まさに「卒婚」と呼ぶにふさわしい形だったのだと思います。

『最良の別れ』は、最後まで2人で真剣に生き抜いた証

離婚という出来事を「卒婚」という言葉で、美化したい気持ちもあったでしょう。双方の言い分を聞いたわけではありませんし、友人というひいき目もあったと思います。

しかし、友人は「最良の別れ」に向けて、出来る限りのことは尽くしたと自負して語ってくれていた。そう、ぼくは確かに感じました。

この「最良の別れ」は、「幸せになる勇気」という本に登場する言葉です。ベストセラー「嫌われる勇気」(著:岸見一郎・古賀史健)の続編にあたるアドラー心理学の本で、個人的にお気に入りの一冊でもあります。

「われわれに与えられた時間は、有限なものです。すべての対人関係は『別れ』を前提に成り立っています」
「だとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら『最良の別れ』に向けた不断の努力を傾ける。それだけです」
「いつか別れる日がやってきたとき、『この人と出会い、この人とともに過ごした時間は、間違いじゃなかった』と納得できるよう、不断の努力を傾けるのです。」
「『いま、ここを真剣に生きる』とは、そういう意味です。」

離婚に限らず、死別であれ、転居や転勤、転職にともなう別れであれ、どんなに誠意を尽くしても、心を尽くしても、何らかの形で、いつか必ず別れの時はやってきます。

そのキッカケが何であれ、別れの瞬間だけを切り取って、自分が悪いとか相手が悪いとか、単純な二元論で片付けることはできません。出来事は、ただの出来事であり、そこに善も悪もない。至る理由や経緯は100人いれば100通りですから。

だからこそ、当事者の2人が不断の努力を重ね、真剣に生き抜いた証こそが「最良の別れ」という形で表れるのに違いありません。2人だけが、その別れを「良い」ものか「悪い」ものか、自由に決める権利があるのです。

自分と相手を尊重するための退場に、善も悪もない

出会った頃は、一緒になるべき相性だった2人だとしても、共に歩む中で、それぞれに新たな転機を迎え、互いに学び合い、成長していきます。

そのうち、出会った頃と違って、相性が悪くなっていくこともあるでしょう。

また、どうしようもなく価値観が合わないことに、一緒になってみなければ気づけなかったという話も聞きます。

それでも、相手と自分を尊重したい。
となれば、退場して距離を置くしかない。

その決断に善も悪もないハズです。

別れの辛さを「犯人探し」にすり替えて誤魔化すことが悪

とはいえ、別れが「辛い」ものであることは確かです。
周りは、正論を振りかざして好き勝手に善悪の色をつけたがりますから。

それと、離婚は他の別れにはない辛さがあると思うのです。

理由は2つ。1つは、双方の家族や親族をも少なからず巻き込むことになるから。そしてもう1つは、転居による別離や死別と違って、合法的に自ら決断し、手を下す別れだからです。

離婚は、法的には協議で・調停と区別はありますが、最終的にはお互いが同意しなければ成立しません。仮に相手から切り出されたとしても、こちらが離婚しますと返事をしなければならない。それは自ら決断するの同じです。

家族として、人生の伴侶として誓い合った相手との関係に、自ら決断し、手を下して離れる。ぼくは、この別れの辛さを誤魔化そうとして、「相手が悪い」とか「自分が悪い」などと、もっともらしい理由をくっつけて、善悪にすり替えようとすることが、最も悪ではないかと思います。

相手を悪者扱いすれば、争い揉める。自分を悪者扱いすれば、自分を見失う

別れた相手を悪者扱いすれば、自分も、自分に味方してくれる周りの人たちも、離婚という事実を「それなら仕方ない」と納得させられるかもしれません。

だから離婚が悪になるのです。相手と争い、揉めることになるのです。

相手を責めることは、それまでの日々で相手から受け取ってきた愛情と思い出を、自ら否定するようなものでしょう。

では逆に「別れたのは自分のせいだ」と自分を責めれば、自分を納得させられるのか?

それでは、自分が注いできた愛情を見失ってしまう気がします。自分を責め続けて、結婚して得たはずの幸せを、自ら否定していくことになる。

思い出まで失われたわけではないんですよね。
自分を責めることは、自分の愛情とそれまでの日々を否定するのと同じです。

離婚に、善も悪もありません。
相手が悪いとか、自分が悪いとか、決めつけるのは簡単です。

別れの痛みと辛さは、愛を育んできた日々と絆の証。
相手を愛してきた証なのですから。

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1986年10月生まれ。教育業界10年を経て、人間の使命を研究中。先天的個性と潜在意識に即した人生相談は、SNSと口コミ紹介中心に3年で840件。「正直の頭に神宿る」人を世に出します。主な依頼内容は、就職・転職・起業・社会復帰・恋愛・夫婦関係・親子関係・子育て・不登校など。
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