King Of The Mods, Peter Meaden

2020年3月29日、最愛のミュージシャンであるアラン・メリルが亡くなった。日本での音楽活動期間もあり通なロック好きには気になる存在のアラン。本人の口から日本での活動やLovin' Spoonful、Left Bank、Badfingerになり損ねた話はラジオやSNSで語られている頻度が多いが、Arrows結成前からイギリス滞在時の話、英国60年代の最大イコンとも言えるモッズとの交差についてあまり言及を見ないので本人のblogを翻訳してみた。

オリジナルの記事はこちら→https://alanmerrill.tumblr.com/post/36812577105/king-of-the-mods-peter-meaden

キング・オブ・モッズ、ピーター・ミーデン

byアラン・メリル 2005年9月24日

1973年の終わりに俺がロンドンに到着した時には特にプランがあった訳じゃなかった。東京で活動していたウォッカ・コリンズのマネージメントの間違った行為で収入を得られない怒りから俺は旅に出た。
俺は日本でヒット・シングルを出していたのに売り上げはマネージメントに盗まれていたし、ロンドンへ向かった時はヘフナー・ベースとギブソンES-345TDの2本のギターと小さなスーツケースだけしか持てなかった。

俺が東京に居る時、1965年にニューヨークの高校で知り合った古くからの友人でギタリストのジェイク・フッカーが、デッカ・レコードのロック/ポップ部門のディック・ロウと契約を結んだから日本でのバンド活動を止めイギリスへ来いと伝えてきた。
これは後に嘘だと解った。ジェイクは、マーシャルのアンプをデッカへ売ったお金で俺に東京からロンドンへの航空券を購入してくれたわけだ。
ジェイクは、彼のバンド「Streak」としてデッカのサブレーベルのデラムと契約していた。(Streakの音源が聴けます https://www.youtube.com/watch?v=J8UB-S7YW-A)
彼らは、「Bang Bang Bullit」というシングルを一枚リリースするも失敗し契約を切られてしまっていた。
Streakは元々ジェイクと日本での休暇中の俺が1971年に始めたバンドで、ドラマーはジョン・シオモスだった。

ジェイクは、俺たちがニューヨークで作ったStreakのデモを手にこのデモには参加していない新メンバーのベン・ブリエリーとドラマーのデヴィット・ウェスレー(デヴィットは後にポール・ヴァレリーと交代)とロンドンでレコード契約を探していた。これは俺が曲を書き歌を歌っていたという巧妙なトリックだった。レコード契約の交渉は俺の友人を通してロンドンで俺が70年の大阪万博のポップアクトで1週間ロックパイロットをバックにソロ・パフォーマンスを行なった時に出会ったマネージャーのトニー・ホールと交わす事に。
俺は、ジェイクに虚栄心の迷いからトニー・ホールの連絡先を伝えてしまった。俺のデッカでのディック・ロウとのミーティングは、直接的で大雑把だった。俺がロンドンに来た時点でデッカとジェイクの関係があまり上手くいってないと本能的に感じ、デッカはジェイクと俺が成功するユニットだとは思わないと言い、同じ事をビートルズにも言ったので落胆する事は無いと冗談を言った。俺は、デッカと確実な契約があると誇張したジェイクにイライラしたが、イギリスから東京へ戻ろうにもお金が無く壁に追いつめられていた。

一方、俺が日本でせっせと働いていた1972年、ジェイクは伝説のピーター・ミーデンと出会い友人関係を結んでいた。
ジェイクは、ピーターに俺の事を伝えており、俺がロンドンに来ればバンドはワールドクラスのバンドに確実になるだろうとピーターに伝えていました。
俺がロンドンに着いた最初の数日、ジェイクと一緒にキングス・ロードの終わりにあるワールズ・エンドの古き良き酔っぱらいでいっぱいで完璧のパブでピーターに会い直に意気投合した。俺達はロックンロール・ファッションで際立っていて非難の目で見られていて、ピーターは手を振りこの服装を却下した。
ミーデンは率直に面白く魅力的、俺は彼のイージーさと強烈なエネルギーを完璧に感じました。俺とジェイクはバンドを始めるに当たって手を貸してくれる信頼できる人間だとすぐに思いました。
始まりのかすかな光は実際にロンドンで自分たちバンドに何かが始まるかもしれないと見えました。
ピーター・ミーデンは事実、the Arrowsという俺たちのバンド名を、ピーターが最初期にマネージメントしていたバンドであるThe Whoが使っていたロゴの矢印から取って名づけました。

ピーターはかなり個性的で、最初に気づいたのは話す前、1単語喋る毎口を完璧なO状にする事、そしてそのまま2事目を喋るのです。
俺は、そうやって喋る人を観た事がなかった。これは本当にピーター・ミーデンの面白いエピソードです。俺たちは60年代のロンドンのモッズ・シーンとThe Whoについて話をしたが、ピーターがThe Whoのマネージメントをクリス・スタンプに取られた事の負け押しみを彼の口から聞いた事がありません。彼はThe Whoを無条件に愛していました。
俺が感動した事は、彼が俺たちの新しいバンドをマネージメントしたがっていたという事です!「I’m The Face」を作曲しロンドン・モッド・シーンの生きる宝石の様な男でThe Whoのオリジナルマネージャーがです。
ピーター・ミーデンはブリティッシュ・ロックの伝説と言える名前で、俺はもちろんマネージャーになる事を望んでいました!彼は、業界とのコネクションがありリスペクトを集めていましたそて俺は当たり前に彼が大好きでした。
それでピーター・ミーデンはThe Arrowsの最初のマネージャーになったのです。

駆け出しのThe Arrowsはキングス・ロードのマノーズ・ヴァスト・スタジオでリハーサルをし、ピーターはこれを聴きアドバイスを提案してくれました。ポール・ヴァレリーがドラム、ジェイク・フッカーがギター、そして俺がベースとヴォーカルです。ピーターはリハーサル後、近所のパブで音楽の話とバンドのイメージ両方のクリエイティブで非常に複雑なプロセス、アイデアを提供しました。彼はマネージャーというより、俯瞰しアイデアを集めていました。
ぴーたーはマネージメントの手助けをし全ての面でバンドの成長させてくれました。グループのイメージに関し多くのアイディアを持ち、各メンバーのとても明確なメディアペルソナを作り上げ、イメージがバンドの成功に重要だとしていました。

12月になると、ジェイクと俺はソングライターチームとして出版契約を求め、ピーターが勧める場所へ積極的に挑戦をしていました。残念な事に俺にはお金が必要で、ガールフレンドが日本から来るのに未だ自分のフラットで暮らしておらず、マルベリー・クロースのジェイクのフラットのソファーで暮らしていました。
俺はすぐに収入を得るか、ガールフレンドが到着し恥ずかしい思いをするかの二択です。
俺たちはデモテープを作らずにいくつものレコード・レーベルの出版部門を周りオフィスでアコースティックギターでライブをしました。モータウン、ベル・レコード、CBS等々、そして最後にRAKです。デイヴ・モストはRAKの出版部門長で俺たちのライヴ・プレゼンテーションを好んでくれ契約を結ぶ希望を出してくれました。デイヴ・モストは彼の兄弟であるプロデューサーのミッキー・モストに話をし、ミッキーは俺の歌を聴いたが他の曲を吹き込むアイディアを出しました。
それは「Touch Too Much」という曲で、俺たちにこの曲をレコーディングさせRAKレコードでシングルをミッキー・モスト・プロデュースでリリースしたいという事でした。全て一日での出来事です。
ミッキーは音楽業界で偉大なプロデューサーの一人だったので少し圧倒されました。彼のやっていることは実際に成功を保証する事ができArrowsは「Touch Too Much」をBBCのトップ・オブ・ザ・ポップスで演奏しました。

モスト兄弟とのミーティング後、俺達はピーター・ミーデンに伝えたが、彼は熱くそんなのは間違いだと言いました。 彼は腕を振りミッキーと契約する事のダメさを言った。ミッキーは、俺たちをティニーボップ・アイドルにしようとしRAKと契約するなら、ピーターとの関係を切らなければいけないと言いました。
「なぜ?」と俺たち失望よりも先に尋ねた。
ピーターはバンドの友人であり、支持し続けたいと話したが、これはシンプルな話ではなく、ミッキーの仕事は良いと思えないと言いました。

しかし、俺は早くお金が必要があった。靴に穴が開くほど、ロンドンで出版とレコーディング契約を探しており、ミッキーは既に、バンドに小額のギャラを渡しておりミッキー・モストと契約することに。そして直にピーター・ミーデンはArrowsと手を切る事になった。
俺はお金を得て自分のフラットを持つ事ができ、ミッキー・モストは俺たちをスタジオで働かせました。
俺たちは物事が次第に真剣になり他のマネージメントにアプローチしました。キャット・スティーブンスをマネージメントするバリー・クロストは、「お金を生むためのポップ・ヒット・シングル」は嫌だと断ら。そしてバークレイ・ジェームス・ハーヴェストマネージメント、イアン・カッシーとデイヴ・クロウに頼んでみたが、契約には至りませんでした。
そしてミッキー・モストは自身でマネージメントをすると言いました。
皮肉な事に数年後デイヴ・クロウはRAKレコードで働く事になります。

さて、俺が東京からロンドンに引っ越して6ヶ月Arrowsはミッキーの選んだ曲、チン&チャップマン作曲の「Touch Too Much」でトップ10ヒットを得た。ガールフレンドが日本から到着し、キングス・ロードを少し入ったスローン・ストリートのThe Nell Gwynn Houseというナイスなフラットをシェアし、時々ピーター・ミーデンに会い、Arrowsに関し彼はティーンマーケットにお金で本物のロックンロールバンドを売り払ってしまったことをどれくらい失望しているかを決して決して偽らずに話しました。

最後に俺がピーターを見たのは1976年2月、共に素晴らしい時間を持てた事を伝えられ嬉しかった。Arrowsは、そこまでで2曲のヒットシングルを持ち、日本人のガールフレンドと別れ、ノッティング・ヒル・ゲーロのキャンプデン・ヒル・ガーデンに住んでいました。ピーターは、スティーブ・ギボンズ・バンドのマネージメントしていて、彼らがレナード・スキナードのオープニングアクトをするのでArrowsを招待してくれました。俺たちはポートベロー・ホテルで会い、レインボー・シアターへギボンズ・バンドのツアーバスで向かいました。俺はバスでトレヴァー・バートンの横に座りザ・ムーヴの大ファンであった自分にとって非現実的なロックンロール思い出の一つになった。 ピーターは俺とトレヴァーの前に立ち、揺れるバスによろめかないようにシートを掴んでいた。ピーターは、全身レザーを着てチューインガムとバイクハットを被るというトレヴァーのバンドでの「レザーボーイ」イメージは自分が彼に作ったイメージだと興奮して説明し、そのイメージは、ジューダス・様なバンドがコピーし、ヘヴィーメタルシーンへ繋がる事になった。

ツアーバスはロンドンのフィンズベリーパークにあるレインボーシアターの会場に到着し、ピーターは、バックステージの木製のバーと漆喰の壁のある、こじんまりとした濃い緑の色合いの部屋のアーティストバーでドリンクを持ってくるように言い、ピーターは俺たちやそこにいた人たちに話をし始めました。
ギボンズ・バンドがステージの、ピーターは俺たち全員のために取ってくれた席に連れて行き、バンドはとても良くスティーブ・ギボンズが映画のヒーロー、ヘラクレスのように観えた。(ミーデン・マネージメントの特徴ではないように思えるけど)バンドはまとまりのある見た目ではありませんでしたが、彼らのショウは素晴らしかった。

レナード・スキナードの出番では、ギボンズ・バンド俺たちの席の周りに座り共にショーを観た。
俺はスキナードの2人のギタリストが好きで、バンド全員が上手い演奏で歌っていた。 音楽じたいは、イギリスのバンドの方が好きで、好みではなかったが、特定のロックファンへのアピールはよく解りました。
ショーの後、俺たち全員ギボンズのバスに再び乗り込み、ギリシャ料理のレストランでの打ち上げに参加した。レストランにはバッドカンパニーのメンバーも加わりスティーブ・ギボンズ・バンド、バッドカンパニー、レナード・スキナード、Arrowsの4バンドが集まり美味しいフード食べ物は美味しく、みんなでウーゾ、ワイン、ビールを飲んだ。
ディナーの後、全バンドがギリシャ料理の伝統に従いたくさんの皿を割りテーブルが押し倒され、ギリシャの伝統と関係なく窓を割り、出て行くように言われました。

パーティーはポートベロー・ホテルに移ったがツアーバスと運転手は帰ったため、タクシーに乗る必要があった。ポートベローのバーは24時間年中無休で営業しており、どのバンドもショーや打ち上げの後に行くべき所として超人気スポットの1つでした。酔っ払いで無茶苦茶なミュージシャン達は、この新しい場所にやってきました。
バッドカンパニーのメンバーであるサイモンカークとポールロジャースは、希望と理性を超えて酔っぱらい、積極的にテーブルをひくっり返し、ホテルのレストランの店員に向かってシャウトし、そのうちの1人は、俺のノッティング・ヒル・ゲートの近所の住人シェリル・ニュートンであり、俺の大家のT.Sヘリングはこのホテルのオーナーだったので、俺はヤバいと思っていました。
ホテルの2階に宿泊している人がいると説明され、再び出て行くように言われました。
ホテルのスタッフは、ホラー映画「ゾンビ」のワンシーンの様だったかコメントしました。

朝になり、素晴らしい夜を共に過ごしたピーター・ミーデンに大げさにありがとうを言った後、別れを告げ、タクシーでノッティング・ヒル・ゲートの家に戻りました。

それから彼に二度と会うことはありませんでした。

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