ハロウィンもバレンタインも、「本家」からどんどん遠ざかっていく日本
『日本は昔から、海外のいろんな文化を取り入れてきた国だ』とも言われます。
『とも言われる』というのは、昨日は『日本は保守的な国だ』とまったく逆の書き出しで始めたからです。
実際、いまの日本は仏教やハロウィンやバレンタインなどなど、海外のいろんな文化がごちゃ混ぜになっています。
こういった側面をみると『日本は海外からの文化に寛容な国だなぁ』と言えなくもないのですが、ときにはそれに対する揶揄として『海外からの取り入れた文化の中には、有名無実化しているものも少なくない』といった指摘も散見されます。
確かに、日本は世界的にみると『仏教国』として認知されていて、お寺もたくさんありますが、いま町を歩いている日本人に『あなたが信仰している宗教はなんですか?』と聞いて『仏教です!』と即答する人は、少ないと思います。
また、ハロウィンやバレンタインだって、海外のそれらとは大きく雰囲気や実際にやっていることも違うようです。
ただこういった現象は、ポジティブに捉えるなら『自分たちに合った形にカスタマイズしている』と形容することもできます。
なのでこれ自体の是非は一旦置いていて『そもそも日本はどうして、海外からの多くの文化が時とともに変容していくのかなあ』ということは、ぼくも気になっていました。
『ローカライズ』というのは、多かれ少なかれどこの国や地域にでも起こることだとは思いますが、日本は特にその傾向が強いんじゃないかと。
少しズレますが、『ガラパゴス携帯』なんて言葉も生まれましたし。。。
そしてそのあたりの事象を日本の文化的背景に沿って考察していたのが、昨日に引き続きの登場『「空気」の研究』です。
「空気の研究」とは
まず昨日のnoteの内容を要約すると、『日本でよく言われる「空気を読む」の空気は、ぼくたち一人ひとりの「臨在感的把握」によって醸成される。臨在感的把握とは、そこに実在するわけではない「空気」をあたかも実在するように感じてしまうこと。そしてなぜぼくたちが臨在感的把握をしてしまうかというと、ぼくたちに根付くアニミズム信仰によって、世の中に存在する生物・無生物を問わず様々なものに対し、ぼくたちが感情移入(=絶対化)しうるから。』ということです。
結論からいうと、ぼくたちが海外から入ってくるいろんな文化を有名無実化してしまう根本にも、アニミズムが関連しているんですが、もう少し順を追って書いていきたいと思います。
昨日は『「空気を読む」の空気ができるまで』というタイトルで、空気ができるまでの過程を書きました。
ただ著者の山本七平は、空気に影響された意思決定は、論理的でないから危険だと言います。
そして、『空気』に抵抗する手段として『水を差す』という行為を紹介します。
『水を差す』ことによって、その場の『空気』が崩壊するだろうと。
本中における『水』とはぼくたちの『通常性』であって、『水を差す』とはすなわち狭義的には『即座に人びとを現実に引き戻すこと』です。
みなさんにも、なんとなく思い当たる節があるかもしれません。
『でもそれって...』とか『というかそもそも...』などは、ぜんぶここで言う『水を差す行為』です。
「空気」と「水」と「通常性」
それで、この『水を差す』行為と『海外文化の有名無実化』にどういう関連があるのかということの答えは、『水』がいかにして『空気』を壊すのかの過程にあります。
本中ではその過程について、このように書かれています。
われわれの社会にはこの「水」の連続らしきもの、すなわち何か強力な消化酵素のようなものがあり、それに会うと、すべての対象はまず何となく輪郭がぼやけ、ついで形がくずれ、やがて溶解されて影も形もなくなり、どこかに吸収され、名のみ残って実体は消えてしまうという、実に奇妙な経過をたどる
あくまでもこの経過は比喩表現にすぎわないわけですが、ただ、まさにこの経過はハロウィンやバレンタインが有名無実化していった過程そのものです。
本中では、内村鑑三のこれまた面白い比喩が引用されていました。
たとえば内村鑑三はこの作用を一種の腐食にたとえ、日本は雨が多いから、外来のどんな思想や精度もたえず「水」を差し続けられて、やがて腐食して実体を失い、名のみ残って内容は変質し、日本という風土の中に消化吸収されてしまうという、面白い考察をのべている。
ただそうすると、ここらへんで頭がこんがらがってきます。
『空気』を壊してぼくたちを『通常性(=無意識の世界)』に引き戻してくれるのが『水』だったけど、水はその過程で対象(=空気)を有名無実化してしまうではないかと。
海外の文化が有名無実化するのは正直どっちでもいいですが、日本や会社を動かす大事な制度や会議が形骸化してしまうのは困ります。
一体、『水』はぼくたちの味方・敵、どっちなんでしょうか。そして『空気』と『水』は、一体どういう関係なんでしょうか。
「空気」と「水=通常性」と「アニミズム」
筆者は結論として、『「空気」を創出しているしているものも、結局は「水=通常性」なのであり、われわれはこの空気と水の相互的呪縛から脱却できないでおり』と書いており、ぼくは当時ここでもう頭がショートしました...
いままでさんざん『空気vs水』という対立構造を煽っていた(はず)だったのに、ここにきて結局『空気』と『水』は相互作用を起こす仲間なんかい!と。
このあたりはまだまだぼくも咀嚼しきれてないので、あくまでも勝手な解釈をすると、結局そこにはアニミズムが関連しているんだなというのが、現時点での落とし所です。
つまり、ぼくたちの『通常性(=無意識の世界)』にはもうすでにアニミズムが浸透しているので、『水(=通常性)を差す』行為そのものが、アニミズムの影響を受けているのではないかと。
だから、『水』によって仮にその『空気』は破壊されても、ぼくたちはまた新しい別の『空気』を醸成するんだと思います。
なぜならばアニミズムは、あらゆるものに霊が宿っているという考え方なので。
山本七平が言っている『空気と水の相互的呪縛』とはたぶんこの『作って壊して』の繰り返しを指していて、ハロウィンやバレンタインも結局はこの相互的呪縛を通して(=一種の絶対化の対象となって)、通常性のなかへと取り込まれていきました(ローカライズされて有名無実化しました)。
つまりぼくたちは、なんらかの『空気』のなかには影響され続けるということです。
ということで、もうぼくたちに為す術はないのだ!という結論は、あまりにも悲しいので...
じゃあどうすればいいのかというは、昨日も少し書きましたが、結局『相対化』しかないのです。もしかしたら『メタ認知』と言い換えられるかもしれません。
それについて山本七平が本著の最後で熱弁しているので、今日はそこを引用する形で終わりたいと思います。
結局、民主主義の名の下に「消した」ものが、一応は消えてみても、実は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。
いかにしてその呪縛を解き、それから脱却するのか。
それにはそれを再把握すること。それだけが、それからの脱却の道である。
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