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「科学」と「テクノロジー」の違い

科学は自らの優先順位を設定できない。
また、自らが発見した物事をどうするかも決められない。

「サピエンス全史(下)」より


「サピエンス全史(下)」という本を読みました。


きょうはその感想、第3回です。

第1回 専門家になるほど「語れない」
第2回 「科学」と「宗教」の距離感


きょうは「科学そのものの無意識さ」、もう少し違う言い方をすると「科学そのものの無力さ」みたいなことについて、書いていきたいと思います。

テーマだけ聞くと小難しい感じがしてしまいますが、たぶんそこまで込み入った話ではないので、ご安心ください!


16世紀から17世紀にかけて、「科学革命」が起こって以来、世の中の変化は常に「科学の進歩」とともにありました。

それから500年くらい経った現代においては、「社会」を語る際に「科学」はもはや切っても切り離せない存在です。

いまこの21世紀に生きるぼくたちにとっては、このように「社会」と「科学」が密接であることが自然な感覚ですが、科学革命が起こる前は、別にそうでもありませんでした。

なぜなら、それまでは「科学」が社会、もう少し限定した言い方をすると「権力者」の「役に立たなかったから」。


権力者や支配者が欲しいのは「科学」ではなく、あくまでも社会を動かすのに「役に立つ」ものです。

科学革命が起こるまでは、権力者の役に立ったのは「科学」ではなく「宗教」や「組織論」などでした。

※以下、このカッコで囲われた文章は全て「サピエンス全史(下)」からの引用です。
強力な軍隊を望む支配者の大半や、事業を成功させたい経営者の大半は、物理学や生物学、経済学の研究にわざわざお金を出そうとはしなかった。
支配者は、既存の秩序を強化する目的で伝統的な知識を広めるのが使命の教育機関に出資した。
十九世紀までは、軍事面での革命の大多数は、テクノロジー上ではなく組織上の変化の産物だった。


一瞬話が逸れますけど、いまやぼくたちの生活のインフラとなった「インターネット」って、最初は軍事目的で使われていたって話、有名ですよね。

それ以外にも「軍事発」のテクノロジーはいっぱいあって、今日、ぼくたちはつい「テクノロジー」と「科学」を混同しがちですが、「テクノロジー」はあくまでも膨大な「科学」の一部分を応用的かつ「(権力者の)役に立つ」ように切り取ったものにすぎません。

でも、権力者は「役に立つから」という理由で「(テクノロジーとして使えそうなものの優先順位を上げて)科学」にお金をいっぱい払うので、その投資された「(一部の)科学」はとても目立つのです。

結果的にぼくたちは、「テクノロジー」と「科学」は同一のものだと考えるようになります。

科学とテクノロジーの間に結ばれた絆は非常に強固なので、今日の人は両者を混同することが多い。
私たちは科学研究がなければ新しいテクノロジーを開発するのは不可能で、新しいテクノロジーとして結実しない研究にはほとんど意味がないと思うことが多い。


ここまでを聞くと「結局役に立つものしか生き残らないのかよ!」みたいな感じがして、ちょっと悲しい気もするのですが、いまのぼくにはそれに対して「(短期的には)役に立たない科学にもスポットライトを当てようよ!」と声高に叫べるだけの勇気も力もありません。

そのため、きょうは「結局社会の資源が有限である以上、役に立つものの優先順位は上がるよね」とか、「科学そのものが意志を持つことは難しいから、最終的には待ちのスタンスになってしまうよね」とかって結論に向かって、一旦書きます。


ちょっと話を巻き戻して、「テクノロジー」と「科学」って現代の人たちは混同しがちという点に関して、この本を読んだ当時のぼくも含めた「違いがあんまりわからない」という人のために、本中に出ていた例をひとつ紹介します。

いま世の中に出てきている「テクノロジー」って、「科学という名の氷山の一角」なのだなあという感覚が、少しでも伝わるとうれしいです。

スラグホーン教授は、雌牛の乳腺に感染して乳量を一割減らす病気を研究したがっている。
一方、スプラウト教授は、雌牛から子牛を引き離されたときに精神的苦痛を味わうかどうかを研究したがっている。
提供できるお金は限られており、両方のプロジェクトに資金を出すことができないとしたら、どちらにお金を回すべきか?(中略)
今日の世界では、スラグホーン教授のほうが補助金を獲得する可能性が高い。
それは、乳腺の病気のほうが牛の精神活動よりも科学的に興味深いからではなく、その研究の恩恵に預かる立場にある酪農業界のほうが、動物の権利保護の圧力団体よりも政治的影響力や経済的影響力が強いからだ。


これはもう良いとか悪いとかではなく、ひとつの事実として、「科学そのもの」は意志を持ちません。

常に外的要因からなんらかの影響を受けて、その立ち位置が変化します。


科学は自らの優先順位を設定できない。
また、自らが発見した物事をどうするかも決められない。


そして、その「外的要因」というのは、主には「役に立つ」とか「お金を儲けることができる」とかといった、それを使う人間(≒権力者)の思惑です。

科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。
イデオロギーは研究の費用を正当化する。


きのう書いた『「科学」と「宗教」の距離感』というnoteのなかで、「科学と宗教はグラデーションで隣り合わせだ」ということも書いたのですが、科学から見れば、隣(もしくはもう一回り大きな存在として)宗教がいてくれるからこそ、自分たちの存在に「意味付け」がなされるとも言えます。

繰り返しになりますが、科学「だけ」では、そこからなにか大きなことが動くということは、期待しにくいのです。


ということできょうは、「科学そのものの無意識さ、無力さ」について書きました。

少しモヤっととした結論になってしまうのですが、いまのぼくにとりあえずできるのは、まずこの事実を事実として認識するということですね。


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