心字池

日比谷公園と佐賀と首都東京 Part 1

都会のオアシス、日比谷公園

この公園内にある池=心字池(写真)は、かつての江戸城外堀を利用して作られた池で数年前池の水を抜いた時に、佐賀藩の家紋が入った瓦がでてきたことで有名です。そう、このエリアは、かつて大名屋敷が密集しており、佐賀藩上屋敷も、現在の日比谷公園の一角にありました。

佐賀は昔、肥前国と呼ばれ、明治維新に貢献した、”薩長土肥”の肥は肥前の肥となっています。薩摩は西郷隆盛や大久保利通。長州は木戸孝允、土佐は坂本龍馬など、それぞれキーパーソンが思い浮かびますが、肥前と言われても?。咄嗟に出てくる人物がおらず、果たして、明治維新にどのように貢献したのかよく分からない方も多いかと思います。

しかし、この肥前がなければあのように維新はスムーズに行かず、下手をすると東京が首都でなかったかもしれません。

長崎警備を任されていた佐賀藩

佐賀藩は従来、江戸時代を通して外国との通商の窓口であった長崎・出島の警備を隣国・福岡藩と共に任されていました。

ところが、文化5年(1808年)、重大事件が起こります。
当時、通商を結んでいなかったイギリス船が、幕府と通商のあったオランダ船に見せかけ長崎に入港し、オランダ商館員を拉致する事件(フェートン号事件)が発生します。

結果的に、オランダ商館員は無事解放されますが、警備を任されていた佐賀藩は面目丸潰れ。佐賀藩主には謹慎処分が下り、佐賀藩家老も何人か切腹することとなりました。

この事件では、大きな失敗となりましたが、長崎警備の任にあった佐賀藩は、他藩より、より早くそして深く外国の情報を手に入れる立場にあったと言えます。

(Part 2に続く)

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