
【フランス語の準備】日本語の無意識
フランス語話者から「あなた方親子の名前が母音一つしか違わないことの意味するところはいかなることか?」と問われた。音韻だけでいえばその通りだが、日本語話者はその裏に漢字を想起している。だから、それらはまったく別の意味を持っているのだ、ということを説明することは、もちろん叶わなかった。
ジャック・ラカンが『エクリ』で書いていることだが、日本語は訓読みのいわば無意識としての、中国語由来の音読みを持っていて、パロールの無意識としての外国語=中国語が触知可能なほど二重化されている言語である。これは音韻と書記言語としての漢字にもまた当てはまる指摘だろう。
西欧語にも同様の構造はあるはずで、英語に混成しているラテン語や、そのさらに奥にある古典ギリシャ語、また後のフランス語やゲルマン諸語の影響というのも似たような効果をもたらしているのではないかと想像する。また、キリスト教圏なら聖人から名前を取るのも無意識の基層を成すだろう。
ところで、「粗品」という言葉がある。「粗品ですが、どうぞ」というのは普通の使い方。しかし「こちらの粗品をどうぞ」というのは不自然である。粗品かどうかというのはコミュニケーションの中で謙譲として述べられることになっているのであり、客観的に粗品であるということではないからである。
単語が、漢字の元来の意味が忘れられ、背景にある敬語的な関係性が抜き取られた単語として理解され、用いられるようになるということはしばしばあることである。「献本」などもそうである(「献上」された本という意味がしばしば忘れられる)。粗品に関しては、こちらから「この粗品、いただけますか?」ということは抵抗があるが。
すなわち「粗品」という語が含む、「粗」という漢字由来の意味と謙譲という語法が忘れ去られて、あたかもそれは「そしな」という音韻が恣意的にある種の物品を指す語として記憶されていることによる「誤用」が見られるのも、言語の無意識の(非)作用である。
日本語の歴史的な経緯を踏まえれば「そしな」ではなく「粗+品」と理解するほうが効率的かつ効果的に語を記憶・運用できるのにと思いはするのだが、そうしたことをいったってしかたないことだろう。さらには敬語という難しいシステムの問題もあるのだから。ただ、そういう経緯はあるということである。
そのフランス語話者の問いによって、日本語の音韻の裏に張り付いた無意識についての考えが頭にロードされたのだが、それをフランス語で議論するには能力が全く足りておらず、残念な思いをした。仏人のラカンに基づく議論をフランス語で当意即妙にできてしかるべきだったのだが、そこに至る道は果てしなく遠い。
これは「フランス語の準備」シリーズの端緒を開くきっかけになるだろうか。どうしても他のことに気を取られて一時期進めていたプロジェクトがいつの間にか頓挫してしまいがちなのだが、また学習のきっかけができたので、再開してもいいように思う。フランス語をできないとこのようなストレスが溜まる。
ところでラカンは、音読み・訓読みの話の後、だから日本人には精神分析は必要ないのだと論を展開するのだが、語「粗品」の件に見られるように、日本語話者もまた言語の無意識をすっかり忘却してしまい、音韻としてしか語を捉えられなくなってしまっており、いまではちゃんと(?)精神分析が必要になってきたようである。
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