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パターンと構造。小説の思考

先日、ウォルター・アイザックソン氏が書いたイーロン・マスク氏の伝記を読んだ。数々の伝記をものしてきた著者だけあって、非常に面白い(イーロンへの評価はともかくとして)。あまりにも波瀾万丈過ぎて、波瀾万丈であることにマンネリを覚えるほどである。

その著者が、レックス・フリードマン氏のポッドキャストに出演していたので、聴いてみた。氏によると、イーロンはもとより、彼が伝記を書いたスティーブ・ジョブズもアルバート・アインシュタインもvisual thinkerなのだそうな。visual thinking=ビジュアル思考ってなんだろうか。

なんとなくイメージはできるけど、具体的にはどういうことなんだろう?と思ってググってみたら、テンプル・グランディンさんのまさにそのものの書籍(Visual Thinking: The Hidden Gifts of People Who Think in Pictures, Patterns, and Abstractions)が出てきたので、買って読み始めた。

著者はビジュアル思考の持ち主で、概念が文字通り絵として見えるのだそうな(対義語はverbal thinking=言葉による思考)。また、ビジュアル思考にはそのような意味での文字通りの意味もあるが、もう一つのタイプとして、パターンや構造によって考えるタイプもあるのだという。

まだあまりちゃんと考えられていないのだが、自分はverbal thinking優勢ではあるが、パターンや構造にも強く惹かれるという特性もあるように思う。それこそ、以前作った「図案集」という写真シリーズはまさに「パターン」を集めたものである。

以下で話したように、僕は写真に何が写っているのかについて興味を持っていない(少なくとも普通に被写体を撮るという意味では)。このシリーズはその面を強調したものではあるが、僕が撮る写真は、そんな感じのものばかりである。そのかわり、構図(画面の構造)には強いこだわりがある。

写真シリーズの次のテーマを何にするかまだ思いつけずにいるのだが、ついついこんな状況を見つけると「図案集」の流れで撮りたくなる。これは、わかりやすい対比のパターン。こんな感じで、いろんなパターンに基づく構図をあれこれと試みているのが、先のシリーズ。

僕は、パターンや構造から、ある種の美的な快適さを得ているのだろうと思う。そのような偏愛というのは視覚的なものだけでなくて、日常的に自分が口にしている「AとBとは、一見違うことであるように見えるが、構造的には同じことである」みたいな言い回しも同じ考え方に根ざすのだろう。

自分にとって、Aについての解法がわかっており、かつ、AとBとが構造的に同じことであるならば、Bについての解法も自ずから導かれるということは、三段論法のような推論規則を成している。だから、構造を見出すことは問題解決において重要なことである。

一方で、そのことはAやBがいかなる抽象度におけるいかなる関係において構造的に同じであるのかを示さないと、よくわからない直感と区別ができなくなってしまう。また、AやBにおける具体的な細部について関心の外に置くのは、問題に対する誤ったアプローチにつながる可能性もあろう。

先日発表した小説は、全体としてはまさにパターンによって構造を作った作品で、それは一読して明らかだろうからここで多くは語らないけれども、ここまで述べてきたような偏愛に基づく手癖のようなマニエラによって書かれている。まさにパターンと構造自体が、書かれている内容を成している。

一方で、小説とは「AとBとは構造的に同じ」などという抽象度を扱うのではなく、AとBとの差異そのものにこそ意味がある表現手法なのだろうと思う。だから、どうしたってそうした差異=パターンに回収されない部分が現れてしまうし、それこそが面白さなわけだ。

パターンや構造を扱う部分が発達した自分の思考特性というのは、ある面では便利なことはあるにはあるのだが、そればかりではいけない。小説を書くというのは、自分にとって不足している面における思考の訓練としての役割も果たすことになるだろう。

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