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ステートメント考: 自己紹介に代えて

栗林健太郎

ステートメントという言葉がある。「声明」あるいは「声明文」という意味である。ミッションステートメントといえば、人や組織が、他でもあり得たにも関わらず、なぜそれらではないある行き方を採るのかを、ひとことで述べるために作成される文言になるだろう。会社勤めをしている人ならば、所属する会社がステートメントを掲げていることはよくあることだろうし、ステートメントの作成そのものに関わる機会も珍しいことではなかろう。

アーティストが作品作りの背景をステートメントとして述べるということも、広く行われている。様々なアーティストが、展示する作品やWebサイトにステートメントを添えているのが観察できる。たとえばメディアアーティスト・研究者の落合陽一さんのステートメントは「「物化する計算機自然と対峙し,質量と映像の間にある憧憬や情念を反芻する」(確かに34字で行動の全てを説明できる)|落合陽一」という、タイトルそのものにステートメントが含まれる記事で述べられている。

そもそも自分が何者だと自認しているのかというところからしてよくわからない五里霧中の状態にずっとあるのだが、ステートメントを立てることによって何かしら見えてくるところもあるのかもしれない。ソフトウェアエンジニアという職業に愛着を持ってはいるが、それが自分のアイデンティティを十全に表しているかというと心許ない。属性としての自認を選択することは難しいが、何か核になることはあるようにも思える。それを言葉にすると、こんな風になる。

生命たちのあわいにたまさか現出する汎時間を生きる

生命」とは何か。「生命」ならぬ「非生命」の「非」たる部分を打ち消しているのだから、まずは生命を含むことは間違いあるまい。ならば単に「生命」と書けばよいのではないか。もちろん、そうしていないからには、単に生命そのものを示しているのではなく、「生命」から一度「非生命」を経由した上で「非」とされる、そんなたぐいの存在をなんとか一語で述べようとしてみた、そんなところだ。であるからには、それは単なる「生命」ではあり得ないし、もちろん単なる「非生命」でもあり得ない。では、それはどんな存在なのか。

アリストテレスを真剣に受け取る:「物」を通じて社会へ開かれるエコロジー」および「「物たちの社会」をいかにして作り得るか」では、こんなことを書いた。「物」というのは、それ自体に内在しているように思える性質に実のところ織り込まれている人間や社会を透かし見せる契機である。また、織り込まれるのは人間や社会のような「生命たち」だけでなく、物たちの社会と呼ぶべきあわいに現れる何ごとかでもあり得るのではないかという展望を述べた。上記した「生命」とは、そのような意味における「物」である。人間も社会も「生命」である。

その「生命」たちの「あわいにたまさか現出する」というのはどういう事態か。あらかじめ定まっていることなど何もなく、すべては「たまさか」見出される。「生命」たちは、それ自体に内在する何ごとかによって作用をなすことはないのだから、自らが「生命」たちとの「あわい」においていかなる作用を及ぼし得るかについて、あらかじめ知ることはない。そうではなく、「あわい」において「たまさか現出する」何ごとかを、たまたま何ごとかであると認識し得るのみである。

それでは、いかなることが現出するのか。それを、さしあたっては「汎時間」という、書いている自分にとってもまだ手に馴染まない言葉を使って表現してみることにする。少なくとも、それが現出以前の過去を織り込んだ何ごとかであることは明らかである。そして、未来もまたあわいに現出するたまさかの偶然の連なりなのであってみれば、そのこと自体の必然性(偶然性の必然性)によって、現出そのものに織り込まれて現れる。

そのようにして、生命として、他の生命たちとのあわいにたまさか現出する汎時間に開かれてあること。それが「生きる」ということである。

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栗林健太郎
おもに「あんちぽ」と呼ばれています。 GMOペパボ取締役CTO / 日本CTO協会理事 / JAIST先端情報科学博士前期課程(東京サテライト) / 情報処理安全確保支援士(登録番号: 013258) https://kentarokuribayashi.com