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2019年の現代アートを回顧する――世界のアートはグローバルからローカルへと旋回した!(2)

2.空洞化する中心

ヴェネツィア・ビエンナーレは、故オクウィ・エンヴェゾーがキュレーターを務めた2015年を除いて、必見とはいえない時代が続いている。これほど世界中に名前が知られ大規模化(ビエンナーレのみならずその他を含めれば100近い企画展が行われているだろう)した展覧会に、一般受けする作品はあっても、真に面白い、言い換えれば現代を斬新な切り口で見せる刺激的な作品は少ない。
58回目(19世紀末に始まる世界最古にして最大のビエンナーレ)の今回も基本的にそうだったが、少ないなかで注目すべき作品はいくつかあった。本文の作品(3)が、その一つ。その他では、今回金獅子賞を受けたアフリカン・アメリカンの俊英アーティスト、Arthur Jafa(6)である。

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彼の出展作「The White Album」(2019年)は、アメリカにおける黒人差別の実態を、マスメディアやネットから映像を豊富に引用してその現状をえぐりだし、辛辣に批判した(すでにサンフランシスコで観賞済みだったが、背景がアメリカだと余計にリアリティが増すことに気づいた)。それ以外にも、今回はビエンナーレ本体ではなく、同時期にヴェネツィア市内で開催された企画展に興味深い展覧会がいくつかあった。
さて、ビエンナーレ本体の国別パビリオンは、2000年代に多文化主義の流行が去って以降、その機能が活かされてない。国別パビリオンが、その制約に従う(それによって国ごとに作品のレベルが異なり、毎回見るに堪えない展示のパビリオンがある)ことなく、国別のシステムでは代表される機会のない、国の内外を問わずマイノリティの作品を展示すること、つまり掟破りの展覧会のほうが断然面白い。デンマークは、それを率先して実践してきたが、今回はパレスチナ難民のアーティスト、Larissa Sansourが自らの体験を基にした作品(7)を発表した。

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くどいようだが中心の不在に関して、かつて中心だったヨーロッパの衰退と没落を赤裸々にセンチメンタルに嘆く映像インスタレーション(by Ed Atkins、8)を挙げたい。本作は、アルセナーレの企画展に出展された。

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これを観賞すると、ヨーロッパは、もう終わっている!と泣きながら叫びたくなる。
このようなヨーロッパの没落は、同地で開かれる他のビエンナーレ(ビエンナーレ形式のManifestaは、開催地を変えることで、それをうまく掻い潜ろうとしているが)にも如実に現れている。
2019年のリヨン・ビエンナーレ(9)は、展示会場に弛緩した空気が滞留していた。

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なにをやりたいのか分からないというより、やりたいことがないのにフランスというアート大国の誇りだけは依然としてあり、それなりに予算もつくのでビッグイベントを打ってはみるが、内容に乏しい。それぞれ勝手なことを不釣り合いなほど巨大なスペース(リヨンは繊維産業の中心だったので、元織物工場だった?)に展示して、単にみすぼらしく見えるだけなのだ。

ヴェネツィアに話を戻すと、国別パビリオンのあるヴェネツィア・ビエンナーレは、一部のナショナル・パビリオンで、国家と国民の分離と乖離から生じる齟齬や軋轢が感じられた。この現象も、国民=国家発祥の地であるヨーロッパの没落、中心の不在の波及効果なのだろうか?
たとえば、ベネズエラ・パビリオン(10)は、政治危機で一か月遅れで開館。

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香港(by Shirley Tse、11)は、直接香港の騒動に言及した作品ではないが、彫刻の要素のリゾーム的なつながりが、蜂起する市民の連帯や結束を暗示している。

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イスラエル(by Aya Ben Ron、12)は、イスラエル人のための野戦病院のリハビリ施設。パレスチナ人の憤懣がぶちまけられるダーク・ヴィデオによって罪の意識は癒されるのか?

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オーストリア(by Renate Bertlmann、13)は、 外部の不和が自己に反響して狂気の色合いに染まった。

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フランス(by Laure Proubost、14)は、マイノリティを含めたノマドたちの彷徨。暗闇のなかの素晴らしいインスタレーションだが、彼らの移動はEU域内に留まっている。その外に出ることは、やはりリスクがあるのか?

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以上のナショナル・パビリオンは、国家と国民の間に亀裂が走っていることが察知される。それが、国を代表する作品に現れる。むろん彼らの作品は、代表になる前に選別されているので、国家をあからさまに批判しない。だが、作品の発する不穏な軋み、アンビヴァレントな感情、出口なしの苦境に、齟齬や不和が透けて見える。

3.ローカルという呪文を唱える(世界を変えられるのは、ローカルしかない!)

ヴェネツィア・ビエンナーレのナショナル・パビリオンで、意図的にローカルの特徴を出していたのは、フィンランド、カナダ、リトアニア、ブラジルである。

フィンランド(by Miracle Workers Collective、15)は、移民を含む「奇跡労働者」の特異な活動を描写する。労働者は、今や普遍的ではなくローカルな特殊階級に貶められている。

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カナダ・パビリオン(16)は、マイノリティのイヌイット独自のメディア・プロダクション(ISUMA)が制作した映像作品を放映。イヌイットは、自らのローカル(Father’s Land)を大切にしている。

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リトアニア(17)は、東欧で急速な経済成長を成し遂げた国の市民のバケーションとレジャーを題材にし、彼らのそれぞれの思い(彼らの不安や不満を述べることで皮肉や批判を投げかけているにせよ、見かけは満足そうだ)を歌い上げるオペラ「Sun & Sea(Marina)」を上演した。

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4.韓国パビリオンと日本パビリオンの違いは、どこにあるのか?

韓国パビリオンの3作品のうち2作品に日本語が使われている。一方(by Hwayeon Nam、18)は、日本の植民地時代に世界で活躍した朝鮮人ダンサーが辿った数奇(interesting)な生涯のヴィデオ・インスタレーション。他方(by Jane Jin Kaisen)は、済州島をテーマとして日本語を話す人物(在日?)のナレーションが入るドキュメンタリーの映像作品。
このように、韓国は積極的に日本にコミュニケートしようとしている。

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かたや日本パビリオン(19)は、インスタレーションの構造が内側に閉じ、大震災のトラウマに囚われているかのようだ。

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代表アーティストは日本の南端に赴き、そこで日本の根幹を揺るがしかねないカタストロフ(大津波)の痕跡(海岸の巨石)に出逢うのだが、撮影場所の宮古島(中央のベッドで休む暑さに参った何人が、この島のことを知っているだろうか?)は、脱中心のローカル(他のアジアは、この意味でローカル化している)ではなく、中心/周縁を前提した周縁の位置に変化がない。なぜなら、日本の中心は没落も空洞化もしていないからである。内向する中心は、他者にメッセージを発信することはないだろう。

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