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神さまと生きるために知ってほしいこと 1章 神さまとは?

まずは、聖書に書かれている神さまについて考えてみましょう。
この章では、聖書の主人公である神さまとはどのような存在なのかということについて考えます。

―考えてみましょうー
あなたは、聖書に書かれている神さまがどのような存在であるか知っているでしょうか?
今イメージしている神さまの特徴を、自分の言葉で表現してみてください。



さあ、あなたは、神さまをどのように考え、認識していましたか?
聖書が指し示している神さまを知ることによって、新たな発見があるかもしれません。

「神さまがどのような存在か」という認識が違うと、聖書を読んでいても間違って理解してしまったり、聖書の本当の著者である神さまが意図していることを誤解してしまう可能性があります。
正しい神さまのイメージを持っていることは、とても大切なことなのです。

それでは、聖書に書かれている神さまとはどのような方なのか、一緒に学んでいきましょう。

1.神さまとは創造主のことである。

創世記1章を読みましょう。

「はじめに神が天と地を創造された。(創世記 1:1)」

聖書の神さまは、様々な物に宿る魂や、人間が修行を積んでたどり着く果てにあるものではありません。
また、願いを叶えてくれるランプの精のようなものでもなく、たくさんいる神々のひとりでもありません。
この世界を創造した唯一の神のことを表しています。

神さまは、秩序をもってこの世界を創りました。
神さまはそのひとつひとつを見て、「よしとされた」と書かれています。
それは、この世界が完全な神さまの目にかなう、完璧なものだったということです。

2. 神さまは全知全能である。

民数記24:16、Iサムエル2:3、マタイ10:30を読みましょう。

「神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。(民数記 24:16)」
「おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。(Iサムエル 2:3)」
「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。(マタイ 10:30)」

神さまはすべてのことを知り、どんなことでもできる存在です。
神さまが宇宙という広大なものを創り、神さまが原子や電子という細小なものを創りました。
創造主なる神さまがこれを創ったなら、神さまにとって、地球上で起こる出来事なんてちっぽけなことです。

驚くべきなのは、そんな創造主である神さまが、私たち個人のことを知り、気に掛けているのだということです。

神さまはどこか遠くで私たちを見守っていて、人間には干渉してこないようなイメージを持たれている方もいるかもしれません。
でも聖書では、神さまが人に繰り返し語り掛け、働きかけている姿を見ることができます。
実は私たちも、そんな神さまの語り掛ける言葉や、働きかけに気が付いていないだけなのかもしれません。

「聖書が私たちに教えているのは、神さまが私たちの頭の毛の数さえ知っているということです。(マタイ10:30)」

小さなものから大きなものまで、そのすべてを創られた神さまが、私たちのことを知り、気にかけてくれているということは、何と言う驚きでしょうか?

3.神さまは三位一体の神である。

創世記1:26、ヨハネ14:1-26、マタイ28:19を読みましょう。

「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』(創世記 1:26)」
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、(マタイ28:19)」

神さまは唯一の神でありながら、三つの人格(神格)として存在している三位一体の存在です。
聖書に三位一体という言葉自体は書かれていませんが、読んでいくと神さまはこのような存在なのだということが分かってきます。

創造主である父なる神、キリストとして地上に生まれてきた御子なる神、私たちの内に住んで語り掛けてくれる聖霊という三つの存在が合わさっているのです。

「わけがわからない」と思ったとしてもムリはありません。
これを理解していなくても、神さまとの関係を築いていくためにはそれほど問題はありませんが、折角なのでもう少しわかりやすく解説してみます。

私は、デスクトップ・パソコンを使って考えてみるとわかりやすいと思います。

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パーソナル・コンピューターというのは、本体のことを指していますが、パソコンの本体だけを持っていても何もすることができず、中で何が起こっているかを判断することもできません。
本体の中で起こっていることを見るためにモニターがあり、本体のコンピュータに働きかけるためにマウス/キーボードなどの端末があります。

同じように、私たちが普段イメージする神さまは創造主である父なる神ですが、父なる神さまは見ることができません。
御子は「見えない神のかたちであり(コロサイ1:15)」、パソコンで言えばモニターのような役割を果たしています。新約時代にはイエスさまという人間として地上に来てくださいました。
そして、PCは端末によって働きかけることができるように、私たちは聖霊を通して神さまの導きを知り、その言葉を理解し、関係を築くことができるのです。

神さまが三位一体だということを通して、私たちは何を知る必要があるのでしょう?
それは、神さまの存在の中に、“関係”というものが表されているということです。

そして驚くべきは、私たち人間も、この愛の関係の中に招かれているということです。
父、子、聖霊は、3つの人格が一つとなるほどに、互いが“愛”によって深く結びつけられています。

そして、創造主である神さまが、「あなたも、私たちの中に入りなさい」と、私たちに言ってくれているのです。
すごくないですか?

4.神さまは愛である。

Iヨハネ4:16を読みましょう。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(Iヨハネ 4:16)」

『神は愛です。』と聖書は教えています。
思わず、言葉の使い方を間違えているのではないかと思いませんか。
でも、「神さまは愛する方です」というのではなく、愛そのものだというのです。
そもそも、ここでいう愛とは何なんでしょうか?

世の中では「大好き」という感情や気持ちを愛と呼ぶことが多いですが、それは神さまの愛とは別の物です。
また、相手のすべてをそのままで受け入れることという拡大解釈がされることもありますが、それも聖書が教える愛ではありません。

聖書では、愛とはこのようなものだと教えています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。(Iコリント13:4~8)」

神さまは優しく、寛容です。
でもそれは、私たちが何をしてもいいということではありません。

大好きな人が、人をだましてお金儲けをしたり、誰かれ構わず性的な関係を持ち、自分や近づいてくる人を傷つけて、このままでは破滅しかないという状態になってしまったら、あなたはどう思いますか?

例え、その人への愛が変わらなかったとしても、いや愛しているからこそ、その人に変わってもらいたいと思うのではないでしょうか?

別に理想の人にしようという話しではなく、破滅しなくて済むように。そして、できればその愛を取り戻したいと思うのではないでしょうか。

神さまは、私たちが間違った道を進み、自分や他人を傷つけたり、苦しめたりすることを悲しみ、時には怒りを露わにして私たちを叱ります。
それは、神さまが私たちを愛しているからです。

この世界の全てを創った神さまが、私たちという存在に特別な関心を払い、真剣に向き合おうとしているということです。

愛については、別の章でももう少し学ぶことにしましょう。


ー考えてみましょうー
創世記では、神さまがこの世界を創造したとき、それを見て「良しと見られた」と描かれています。
次の質問について想像し、考えてみましょう。

1. 全知全能であり、愛そのものである神さまが「良い」と思われる世界とは、どのような世界だったと思いますか?

2. 神さまが全知全能であり、愛の神であるなら、この世界はどうしてこんなに問題だらけなのだと思いますか?

特にに2番目の質問は、福音に触れる多くの方が抱く問題です。
私たちが住むこの世界は、全知全能の神さまが、愛をもって創造したとは思えないほど、悲劇や苦しみ、不完全さで満ちています。
これについてはまた、別の章で触れたいと思います。
ぜひ自分自身で、ゆっくり考えてみてください。

3. 神さまが創造主であり、全知全能であり、三位一体であり、愛の神であることがわかったら、皆さんの人生は何かが変わりますか? 変わるとしたら、どんなことが変わるでしょうか? 

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