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礼拝のカタチ

今日教会で見られる礼拝の方法は、教会の歴史の中で培われたものであって、必ずしも聖書に則った普遍的な形式というわけではありません。形式化した礼拝は、意味を喪失して形骸化してしまう可能性がありますが、同時にある程度の枠組みがないと、信仰を保ち、成長することも難しくなってしまいます。

聖書の中に描かれている礼拝の本質を汲み取りながら、形骸化を避け、私たちが心から神さまとの関係を深めることができる方法について考えてみたいと思います。

旧約聖書の時代、イスラエルの人々は、神さまを礼拝するためにいけにえを捧げるという手段を取っていました。レビ記では、いけにえの捧げ方についても様々な目的や方法が詳細に記されています。これは神さまが命じられたことであり、イスラエルの人々はそれを忠実に守りました。

私たちが肉や穀物を焼いて煙にしたら、神さまがそれを食べてお腹がいっぱいになるのでしょうか? そういうわけではありません。創造主である神さまは、物質的な食べ物を必要としませんし、焼いた肉や穀物の煙を吸うわけでもありません。うわべではなく心をご覧になる神さま(1サムエル16:7)は、いけにえを捧げる心を喜ばれるのです。

それでは、なぜ神さまを礼拝する方法がいけにえである必要があったのかと言うと、二つの理由が考えられます。第一に、この時代、この文化圏に生きる人たちにとって、いけにえを捧げることが自然な礼拝の形だったからです。神はうわべの形より心を喜ばれるのですから、人々がより心を込めて神さまを崇められる方法を取ることを承認し、許されたわけです。

第二に、いけにえが殺されることによって罪が贖われることは、イエスさまの十字架をうまく表す方法だったからです。当時の人々は、旧約聖書の時代から続いている「いけにえを捧げる」という形の中で、神さまの御子イエスさまの命と引き換えに私たちの罪が赦されることを、体験的に理解することができました。

神さまは、このような礼拝を継続的に行なうように命じられました。一度いけにえを捧げたら終わりではなく、罪の意識を感じる度に、またその自覚がなかったとしても、定期的にいけにえを捧げたのです。イスラエルの人々は、このような礼拝を習慣的に行なうことによって、自分が罪人であることをその度に再認識し、神さまに立ち返り、罪の赦しを体験的に理解することができました。

定められた行為を繰り返し行なうことは、トレーニングにもなります。その行動が繰り返されることによって正しい姿勢が身につき、心の状態も整えられます。それが習慣化すれば、行動が変わるだけでなく、生き方や考え方、価値観にまで影響を及ぼします。

スポーツや武術、芸術で、素振りをしたり、型を反復することと似ているかもしれません。何度も同じ所作を繰り返すことによって特定の動きが身についていくように、繰り返し神さまを礼拝することによって、心の状態や神さまとの関係が整えられていくわけです。

しかし、そのような繰り返しがもたらしたのは、必ずしも良いことばかりではありません。同じことの繰り返しによって思考停止が起こり、行動が形骸化して、元々の意味が薄れてしまうこともあります。長年の繰り返しの中で、イスラエル人たちは次第に本来の礼拝の意味を見失い、心が神さまから離れて行ったのです。

形ばかりの礼拝を捧げていたイスラエルに、神さまは言われました。

「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。」(アモス5:22)

私たちの礼拝はどうでしょう? いつの間にか形骸化して、ただ毎週同じ時間に、同じ場所で時間を過ごすだけの繰り返しになってしまってはいないでしょうか? 本当に、神さまが受け入れ、喜ばれる礼拝となっているのかどうかを、もう一度見直してみる必要があるかも知れません。

物事を形骸化させないためのポイントが、いくつかあります。第一に、表面的な形より、その行動の意味や目的を考え続けることです。形式主義に陥って、思考停止することによって形骸化は起こりますから、考え続けることによって形骸化を避けることができるのです。

「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サムエル15:22)

と神さまは言われます。そして、

「あなたがたのからだを、神様に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

と聖書には勧められています。このように神さまに聞き、従うことによって「関係を深めること」が礼拝の本質です。それを表現する方法を私たちは考え続けるべきでしょう。

第二に、行動と共に具体的なイメージをすることです。例えば、一日に何千回とバットを素振りしても、それだけでは筋トレくらいの意味しかありません。しかし、一振りごとに投手が投げる球をイメージして、それを打ち返す練習をするなら、それは千回打席に立つのと近い経験値になります。外からは同じように見えても、内容は全然違うのです。

多くの人は、礼拝の中で神さまとの時間を過ごすことはできていると思います。問題は、その体験の反復が日常から完全に切り離されてしまっていることです。特定の環境で、瞑想したり賛美歌を歌うことによる神さま体験の繰り返しは、私たちが特殊な環境でしか神さまと出会えないように訓練することになってしまいます。

「どこで礼拝するのが正しいか」と考えるサマリアの女に、場所ではなく、霊と真によって礼拝することが大切だ(ヨハネ4:20-24)とイエスさまが伝えたことの意味を、私たちは深く考えなければなりません。礼拝を形骸化させないためには、実践や現実と結びついた体験の繰り返しとなる必要があるのです。

第三に、一つの方法を一般化したり、普遍的なものとして捉えないということです。イスラエルの人々にとっていけにえを捧げるという方法がわかり易い礼拝の方法だったように、私たちに適した礼拝の方法があるはずです。

今日教会で見られる礼拝の方法は、教会の歴史の中で培われたものです。日曜日など決められた日に教会堂に集まり、牧師や神父によって導かれ、歌と祈りと説教、式文などによって構成されている礼拝様式は、普遍的な礼拝の姿というわけではありません。

もっと日本人に合った方法というものもあるでしょうし、文化が多様化している現代では、私個人に合った礼拝の在り方というものもあるかもしれません。神さまとの関係を深め、その歩みを続けることを考えた時、あなたが最も相応しいと感じるのはどのような方法でしょうか。


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