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神さまと生きるために知ってほしいこと 5章 救いとは?

救いとはどんなものだと思いますか?

1. 悩みから解放されること?

多くの人たちは、悩みから解放されて、心が安らかになった時に「あぁ、救われました」と言います。
それが救いだとしたら、救われるためにはどんな宗教でも良いし、宗教ではなくても救いを受けることはできるでしょう。
でも、そのような「気持ちの救い」は、多くの場合一時的なものでしかありません。
時間が経ったり、状況が変わると、またすぐに救われていない状態に戻り、落ち込んでしまいます。

2. 天国に行くこと?

多くのクリスチャンたちは、信仰を告白し、天国に行けるようになったことを救いと呼びます。
確かに、それは救いの一面を表しています。
しかし、救いがそれだけのものだとしたら、一度信仰を告白して天国行きのチケットを手に入れれば、後は何をしてもいいということになってしまいます。

そこである教会では、一生懸命に奉仕をしたり、伝道したり、毎週教会に通い続けなければ救いを失ってしまうと教えます。
それを信じる人たちの多くは、いつか天国に行って休める日を夢見て、生きている間は辛くて苦しい信仰生活を強いられるのです。

また、教会は自分の救いのために仕方がなく行く場所となり、礼拝は嫌だけど耐えなければならない時間となり、神のために与えられた義務として奉仕をしています。
その人たちにとっての救いとは、結局自分自身を苦しめるものになってしまっているのです。

3. 神さまとともに生きること

これまで学んできたことを総合的に理解するなら、救いとは、失われていた神さまとの関係を修復し、回復することだということです。

「心の平安」や、「地獄に行かなくても済むようになること」が救いなのではなく、「神さまと共に歩む人生を歩めるようになったことそれ自体」が救いなのです。

神さまとともに歩む人生は、喜びをますます喜ぶことができ、苦しみのさ中に意味を見出すことができ、悲しみの中で慰めを得ることができる人生です。
救いとは、生きている間にすでに神さまとの和解によって喜びで満たされ、死んだ後も神さまと共に永遠の時を過ごすことが保証されているということなのです。


―復習しましょう―
神さまとはどんな存在でしたか?

私たち人間は、どんな存在でしたか? 

この世界は、どのような場所として創造されましたか? 

神さまが創造した世界は、現在どのような状態ですか?

どうしてそんな風になってしまったのでしょうか?


● 世界はどうして問題だらけなのか?

神さまが素晴らしい場所として創造したはずのこの世界と、最高のものとして創られた私たち人間は、私たちが神さまから離れたことによってすべて台無しになってしまいました。
本来なら、私たち人間は滅ぼされても仕方がなかったでしょう。
神さまには、壊れてしまったこの世界と、人間をすぐに滅ぼしてしまうことができた。
しかし、そうはしませんでした。

なぜでしょう?
それは、神さまが私たちを愛していたからです。

すぐに滅ぼされなかったというだけではありません。
神さまは私たち人間が罪の呪いから救い出されるための計画を、すぐに始められたのです。

● 救いの計画

創世記3:15を読んでみましょう。

「わたしは敵意を、おまえと女の間に、
おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
彼はおまえの頭を打ち、
おまえは彼のかかとを打つ。(創世記 3:15)」

これは、アダムとエバをだまして善悪の知識の木からとって食べさせた蛇(悪魔)に対して語る神さまの言葉です。
ここで語られている「女の子孫」とは、やがて与えられることになる救い主のことです。
神さまはやがて救い主を女の子孫として地上に送り、悪魔のたくらみを打ち砕くことを約束したのです。

もうひとつ、創世記3:21を読んでみましょう。

「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。(創世記 3:21)」

実は、ここに記されている「皮の衣」も、やがて与えられる救い主を表しています。
人は罪人になった時、罪人となった自分を恥じて、イチジクの葉で恥を隠そうとしました。
善い行いによって体裁を整え、自分には罪がないかのように振る舞おうとする姿がそこに表されています。

しかし、人が作ったものである「善い行い」で罪を隠すことなんてできません。
神さまは、そんなアダムとエバのために自ら動物を殺し、彼らの罪の恥を覆ったのです。

この時に犠牲となった動物のように、神のひとり子イエスさまが、十字架でいのちを投げ出すことによって犠牲となり、私たちの罪を贖ってくださいました。
私たちは、神さまが私たちの代わりに殺してくださったイエスさまのいのちによって、罪を覆われているのです。

新約聖書には、その事を述べている言葉があります。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ 3:27)」

旧約聖書には、他にも救い主が表されているところがたくさんあります。
いけにえや、掲げられた杖など、様々な形で救い主のことが表されています。
旧約聖書の目的のひとつは、キリストがどこに、どのようにして人類のもとに表れるかを記すことなのです。

聖書には系図がたくさん出てくることに気付いた方もいらっしゃるでしょう。
私たち日本人には馴染みが薄く、カタカナの名前ばかりが並んで、読むことが面倒に感じる系図ですが、聖書にはたくさん出てきます。
それは、救い主がアブラハム・イサク・ヤコブの子孫であり、ダビデ王の子孫として生まれてくる約束が明らかにされ、残されるためです。

他にも、救い主がベツレヘムの町で(ミカ5:2)、処女から生まれてくること(イザヤ7:14)、木にかけられて呪いを受け(申命記21:23)、私たちの罪を贖って死ぬこと(イザヤ53章)、金持ちの墓に葬られ(イザヤ53:9)3日目に蘇ること(ヨナ1:17)などがすべて記されています。
旧約聖書の中には、300以上におよぶ救い主についての預言と伏線が記されていると言われています。

● ナザレのイエスは神の子か?

「自分こそ、聖書に記されている救い主である」と自称していた人たちはたくさんいますが、ほとんどの人は、聖書に記されている預言や伏線として表わされた条件を満たしていません。

そのすべてを満たしたのはナザレの大工の息子として生まれた、イエスさまひとりしかいないのです。
それこそ、イエスさまが聖書に記されている救い主であることの証拠であり、誰が救い主なのかがはっきりするために、ひとつひとつのことが記されていたのです。
そうして預言されていたように、イエスさまは、十字架にかかり、殺され、葬れら、蘇り、人類が罪びとになった時から父なる神さまが計画していた救いのわざを完成させました。

● 十字架の意味

それでは、イエスさまが十字架にかかって死んだということが、私たちの罪とどのような関係を持っているのでしょうか?
イエスさまの十字架での死が、私たちにどのような意味があるのか、これまでの復習をしながら考えてみましょう。

私たち人間は、神さまに背いて善悪の知識の木から取って食べた罪のために、霊的に死んだ者となりました。

それによって人は、神さまとの関係が壊れてしまい、①神さまに背き②自ら神になろうとし③神さまが創造したように生きない状態となったのです。

神さまとの関係が断絶してしまった私たちは、神さまの元に戻ろうとしても、戻ることができません。
そして、どんなに良い行いを重ねても、それによって神さまとの関係が回復することはないのです。

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「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(ローマ3:23)」

神さまとの関係の回復の道は、まず神さまの側から開かれる必要がありました。
そのために神さまが選んだのは、イエスさまが私たちの罪を身代わりに引き受けて、十字架で死ぬという救いの方法です。

イエスさまの十字架によって、神さまと人の間にできてしまった断絶の溝には、もう一度その関係を築くことができる橋が渡されたのです。

それは、人が良い人間になったからではなく、神さまが人を愛しているから与えた一方的な恵みです。
恵みによって、人には救いの道が開かれたのです。

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「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。(ローマ3:24)」

私たちが十字架の意味をちゃんと理解するためには、律法について理解しておく必要があります。

「罪とは何か?」の章でもお話したことですが、律法の目的は、私たちが守らなければならないルールではありません

律法を本気で守ろうとするなら、そこに書かれていることは、私たちには「すべてを守ることができないこと」であり、私たちが神さまの正しさに適わない罪人であることを自覚するためのものでした。

その時私たちが悟らされるのは、私たちがけがれ、のろわれ、死すべき存在だということです。
だから神さまは、その罪からきよめられ、赦され、贖われるための方法も、律法の中に示してくださいました。
それは、いけにえを捧げることです。

いけにえは現代の社会では行われていないため、私たちには馴染みが薄く、残酷に思えますが、人類の歴史の中で長い間行われてきた宗教的な行為でした。
神さまがいけにえを必要としているということではなく、人々の礼拝の方法を受けいれ、それによって救いが与えられることを理解させようとしたのです。

罪に対しては、代価が支払われる必要があります。
そして、罪の代価は、善い行いによって払うことはできず、いのちが支払われるのです。
律法で定められる前から、人はいけにえとして動物を捧げてきましたが、それによって本当に罪の支払いがされるわけではありません。
神さまは、このいけにえを伏線として、救いの道を明らかにしました。

「罪の代価として、神さまご自身がいけにえとなる」それが、人類を救うために神さまが選択した方法だったのです。
だから神さま(御子)は、ヨセフの子イエスとして地上に生まれ、私たちのためのいけにえとして、十字架で死んでくださいました。

イエスさまが十字架の上で最後に発した言葉は、「完了した。」でした。
それは、ギリシア語で「テテレスタイ」という言葉、支払い終了を意味する言葉です。イエスさまの命が十字架の上で尽きたととき、罪の支払いがすべて終了しました。

つまりイエスさまの十字架での死には、律法の中で表されていた、「罪の赦し」、「贖い」、「呪いの解除」という3つの意味と目的があるわけです。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ 6:23)」

● 全ての人は救われたのか?

こうして、イエスさまの十字架によって、人類の救いの道は開かれました。
それなら、これによってもう、すべての人間は自動的に救われたということでしょうか?
いいえ、そういうわけではありません。
自由意志が与えられている私たち人間には、それを選ぶことも、拒むこともできるからです。

神さまは、すべての人のために救いの道を開かれました。
そして、すべての人を神さまのもとに招いています。
しかし、救いを受け取るかどうかは、ひとりひとりが自分で選ぶ必要があるのです。

イエスさまが掛けてくださった、神さまと私たちとの間に渡された橋を渡ることによって、私たちは神さまとの関係を回復することができます。
神さまとの関係の回復するということは、神さまとの本来の関係に戻ることです。
つまり自分や他のものを神とすることをやめ、創造主である神さまを自分の神さまとするところから始まります。

神さまに背き、背を向けていた私たちが方向転換し、神さまに向かうことを悔い改めと言います。
悔い改めという言葉を見ると、何だか自分がやってしまった罪を後悔しながらやめるという意味のように思うかもしれませんが、この言葉が表す最も肝心な部分は、神さまとの関係の回復です。

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―祈ってみましょうー
あなたは、救いを受け取っていますか?
本当に救いを受け取っていると、確信を持って言えるでしょうか?
もし不確かなら、今救いを受け取って、それを確かなものとしませんか?

次のことを念頭に入れながら、自分自身で祈ってみましょう。

① 自分が神さまから離れていたこと(罪)を認める。
② イエスさまの死と復活によって、救いの道が開かれたことを信じる。 
③ 神さまを自分自身の神とし、神さまに従って生きることを決意する。

そして神さまが救いを与えてくださったことを喜び、感謝しましょう!

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