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コミュニティナースという概念

===この記事は2017年11月18日のブログ記事を再編集しています。===

「いやー、マジで半端ない熱量だった。本当に目から鱗というのか、こんな面白い(興味深い)世界があったのか。」
そんなことをつくづく感じた今日一日。

2018年10月からコミュニティナースを養成・育成している方々をサポートさせていただいている関係で、大阪で開催された養成講座の修了生・受講生たちが集まるコミュニティナースフェスティバルに参加させていただきました。(2017年11月18日開催)

今日の投稿は、そのフェスに参加したからこそ感じられた気付きを想いのままにつづってみたいと思います。
※これはあくまで私の仮説です。

そもそもコミュニティナースの定義って?

コミュニティナースとは「そう言えば、ナースだったね」と言われる「地域のお地蔵さん」の様な存在である。

と、ここでは定義しているのかな?
多分言葉の定義としては、学術的に示されているものではないので、不正解はないと思います。
またかなりの解釈の幅を持っているものだと感じています。

私が仮説として捉えている「コミュニティナース」

「コミュニティナースはひとつの”職業”ではなく”概念”である。」
現段階の自分から見えている範囲で考えられる仮説としてこんなことを考えています。単一性の解釈で語られるものではなく、100者、100通りの手段や解釈があって成立するもの。だからこそ、「概念」という位置づけ。

その地で生きる人たちに全力で向き合い、自分自身をさらけ出すことで相対する人との対話が成立する。そして対話が成立することで、初めて医療的ケアの有用性や本来的な「看護」の価値が見えてくる。
それが成立する条件や状況は、その当事者の性格から精神状態、好き嫌いや環境、その日の天気など、想定される変数を挙げるとなると到底きりがないと感じています。

そう思うと、教科書に書いてあるような「こうあるべき」という画一的なアプローチだけではなく、○○という考え方が少しでも含まれていればコミュニティナースの一つに考えられるもの。「概念的なものとしての総称」という位置づけとして捉えています。

場の熱量を支える意志

2017年11月に参加したフェス(コミュニティナースフェスティバル)の熱量はとてつもなく熱いものがあって、オブザーバー的に参加してた自分も気づいたら参加者の輪の中に巻き込まれてしまいました。(更にはどこかよくわからないところに飛んで行ってしまっていたような…w)

参加する中で感じた熱量は、それぞれの参加者が日々向き合っている現場での希望や葛藤いろんな想いが重なったからこそのもの。
そしてこの熱量と意志に触れたことで、これまでの既成概念を超えていこうというアクションをコミュニティナースの方々と体験することができました。

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しかしこれだけエネルギッシュな方々と接してしまうと、関わった側の心も動かされる感覚を覚えました。
きっと看護という眼とこの前向きなエネルギーもった存在が地域に出ていくことで、その街に暮らす人、働く人がより健やかになっていくんだろうなと信じています。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
もし気になったことや感想があればリアクションやコメントをいただけたら嬉しいです。
また読んでいただけることを楽しみにしています^^

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