志賀直哉『和解』に涙するか

志賀直哉『和解』は自伝的小説だが、読み終えてどう評すべきか、言葉が見つからない。前に読んだ『暗夜行路』とイメージがダブって、余計に困惑し分からなくなる。

「白樺」派といわれている仲間は、私に取って最も縁の遠いもののように思われていた。志賀直哉氏の如きは顔も見たことがないーーと言いながら、短い作品「清兵衛と瓢箪」「赤西蠣太」「小僧の神様」などを読んで、「醇乎として醇なる芸術に接した感じがした」「淡彩の日本画といったような趣がある」と高く評価した正宗白鳥は、『和解』をどのように読んだのか、白鳥の『作家論』に手がかりを求めたら、案の定の感想であった。

白鳥はまず「志賀氏の自伝的小説には、あまり興味を有っていない」と言うのである。「最初雑誌に出た時、非凡な小説のようにいわれて、文壇に珍重された、この作者の製作のうちでは長編の部に属する『和解』にも、さほど感心しない」「父子の争闘の根本が、曖昧模糊の感じがする」と歯に衣を着せない。作品の「描写において凡庸の作家の及ぶところではない」と認めながらも、である。

この小説の主人公が、「自分に接触した人物の瑣末な一言一行一挙一動を、自分勝手に解釈して、『いい印象を与えられた』だの、『不快だ』のといっているのが、私にはせせこましく思われることがある」と、白鳥は言うのだが、志賀直哉はたしかに「神経質で気むずかしくて細かいところによく気がつく」タイプの人間であったにちがいない。動いているのは何よりも主人公を取りまく人々、妻や父母兄弟、祖母や叔父叔母、使用人や友人などであり、その言動に神経を反射する主人公がいる構図である。

その究極の存在は赤ん坊である。白鳥は「私の心の捉えられたところがあった。ことに赤児の病気と死亡のあたりは真に迫っていて、しかも主人公の心は混乱していながら、描写は客観性を持して乱れていない」と、その緊迫感への感動を記している。

ちなみに、小林秀雄は「人々は『和解』を読んで泣くであろう」(『作家の顔』「志賀直哉」)と言い、さらに十年近く経て読み返し「同じところで感動し、同じ性質の涙が出る」(同「志賀直哉論」)と述べているのだが、いかんせん私の涙腺が緩むことはなかった。何故であろうか。「余り悧巧でもない脳髄が少々許り忙しがっている」(「志賀直哉」)からとも思えない。おのずと答えが見えて来るまでの「宿題」としておきたい。

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