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コロナ禍のなかで苦しむ「あいまいな喪失」

■はじめに

コロナ禍の世界となって1年が過ぎた。妙法寺ではコロナによって逝去された方のお葬儀を勤めることはありませんでしたが、ここ1年間100件以上(令和2年4月1日~令和3年3月31日まで)の葬儀を務めさせて頂き、遺族・親族・友人方の声につぶさに耳を傾けるなかで、多くの遺族たちが「あいまいな喪失」に苦しんでいることに気づかされた。

■最後を看取れなかった苦悩と後悔

コロナ禍では、感染対策として病院や高齢者施設では関係者以外の立ち入りが厳しく制限されたり、クラスターが発生した病院では、立ち入りを禁止される施設も多く、そのなかで大事な人を亡くした遺族は、
〝最後の数ヶ月、お見舞いにも行けず、ベットの近くで看病もしてあげられず、夫に寂しい思いをさせてしまったことが心残り。〟
〝臨終に立ち会うことができなかった。亡くなった後、やっと霊安室で対面することができた。きっとひとりでの旅立ちは不安だったと思う。〟

という、さまざまな苦悩と後悔の感じたという。

コロナによって逝去された場合、たとえ遺族であったとしても遺体に会うことすら叶わず、火葬されてからご遺骨のみが遺族のもとに戻されるという報道を耳にすると、故人にとっても遺族にとっても、言葉にできないほど苦しく悲しかったことであろうと思う。

■簡略化される葬儀

コロナ禍のなかで葬儀は簡略化され、葬儀式や告別式などの儀式を行わず、火葬のみを行った遺族も多い。
遺族のなかには、
〝外出自粛が求められるなか、遠方から親戚に来てもらうのは遠慮した。〟
〝駆けつけたい思いはあるが、高齢であり首都圏に行くことは家族から止められた。〟
〝通夜振る舞いなどの会食も行わず、お焼香だけでお帰り頂いたが、なにか心苦しさを感じた。〟
という声が多かった。ある大手の葬儀会社の集計ではコロナ禍では半分以上が葬儀などを行わず火葬のみ行ったという。しかし、多くの遺族はそれは本意ではなかったという。
〝本当は通常通り葬儀を行いたかった。〟
〝しばらく会っていない実家の兄弟や親戚達も最後に会わせてあげたかった。〟
〝大好きだった友人とも最後のお別れをすることができず、本当に亡くなっ
たのか実感がわかない。〟
という、やりきれない声が多く聞こえる。

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■もともと簡略化の方向にあった葬儀

「葬儀=高額」というイメージが強く、金銭的なところばかりが注目され、あまりその意義的なものは語られず置き去りにされてきた。「高額」ゆえに派生する〝不要論〟は、コロナになる前から声高に叫ばれて「ゼロ葬」という「弔」そのものが不要とされる傾向があった。しかし、くしくも今回のコロナによって、その「弔」の儀式の簡略化は強制的に進み、その多くが焼却処分のように火葬のみが行われ、しっかりと時間をかけたお別れができない遺族が多かったという。〝コロナ禍だから仕方ない〟という言葉によって自身の気持ちを納得させるように口にはするけれども、心のどこかで〝本当にこれで良かったのだろうか〟〝しっかりとした葬儀をやってあげたかった〟と、虚しさやモヤモヤした気持ちに駆られ、多くの遺族が「あいまいな喪失感」で悩み苦しんでいるように感じる。
「高額だから」という理由で簡略化の方向に進んでいた葬儀は、コロナ禍で大事な人を亡くすことによって感じる遺族の「あいまいな喪失」によって、実は古来より営まれてきた「弔」の儀式は、遺族にとって尊く、大事なものであると感じさせられたのではないかと思う。

■葬儀の意義を見つめ直す

葬儀は、「故人の来世の安寧を祈る」儀式でもあると共に、残されたものがその死を受け入れるための儀式でもある。
葬儀では、縁ある人々と故人の人柄やエピソードを語らい、〝良い人生であった〟と讃え、死出の旅立ちを見送り、その旅への畏れを取り除き来世の安寧を祈ることで、故人の心(魂)だけではなく、残された遺族の心も癒やされ、少しずつその死を受け入れていく。「来世を祈る」という宗教的な儀式であると共に遺族のメンタルな面においては、その悲しみを共有することによって、大事な人の死を受け入れるための必要なプロセスと役割を果たしていたことを改めて感じた。


「弔」の儀式は、大事な人を亡くし、その悲しみを乗り越えたり、また悲しみと共に生きたり、故人亡きあと遺族が生きていくうえでとても大事な儀式なのではないかと、コロナ禍の葬儀を通じて強く感じさせられた。


コロナ禍での葬儀の経験を通じて感じることは、寺院(僧侶)においても、葬儀社においても、従来のような形骸化されていた葬儀をもう一度根本から見つめ直し、遺族と故人の目線に立ち、その代弁者となるような葬儀を営む、再編集される時期なのではないかと感じる。


■〝弔い直し〟が求められるのではないか。

今、僧侶として、考え、取り組めることは、コロナ禍によってしっかりとした「お別れ・弔・葬儀」ができなかった方々のために「弔い直し」という時間を設け、読経や参列者の焼香によって故人を供養して来世の安寧を祈り、生前に縁あった人々が集う場をつくり、故人を語ってもらい、旅立った故人の声に耳を傾け、志を引き継ぎ、悲しみを共有し、そしてその悲しみを、生きるための優しさや力に変えることが、寺院や僧侶に求められているのではないかと考える。

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