20歳で見つめる自分史⑩【大学受験編 Part 2】

今回は前回の続きから。

前回の記事はコチラ

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徐々に受験ムードに

高2の冬頃になると、ほとんどの人達が受験について動き始める。

そのころの僕は、ドはまりしていたパズドラのデータがすべて消えてしまい「これは、勉強しなさいってことなんだろうな」と勝手に悟っていた(笑)

いざ入試へ

高3の夏に受けに行った京大模試。数学が全く歯が立たず、しょんぼりして帰ってきた記憶がある。学校の先生は「現役生はこれから伸びるから安心して!」っていうけど、本当にそうなるのかすごく不安だった。実際、僕の場合は受験生活(浪人も含めて)を通して、その現役生特有の成績のジャンプアップみたいなのは感じられなかった。

大学生になって冷静に振り返ってみると、これは僕の側に責任があるんじゃないだろうか、と思えるのでその要因を振り返ってみる。

一、相談してくれる相手の不在
僕は塾に行くことを猛烈に拒み続けてきた。というのも、勉強する習慣はついていたので、わざわざお金を払ってまで塾に通わせてもらうのはバカらしかったし、なにより自分のやりたいように勉強したかった。中学生の時に初めて行った塾の冬期講習がツマラなかった事も関わってるかも。まあ、とにかく自分で参考書を選んで、自分で勉強法を調べて、自分で計画を立てて勉強したかった。確かにそのやり方で勉強しているのはとても楽しかった(参考書選びは特に)。しかし受験について相談したり何かアドバイスしてくれる存在がいなかった。塾に行っていたらそういう相談相手が生まれていたのかもしれないけど、当時はそういう相談相手はいらないって思ってたし、自分ひとりで解決しようとしていた。これは水泳部部長をやっていた時ともつながるかも。すべて一人でやる、っていうのは強い自立への欲求の現れである一方で、「自分ならほかの人の手を借りずともできる」っていう自分への期待・自己評価の大きさでもあると思う。そう考えると、僕は自信がなかった、というよりは自信があったから、ひとりでなんでもやろうとして低い次元でくすぶっていたのかもしれない。塾行っとけばよかった、とは思わないけど受験において信頼できて親身に相談に乗ってくれる存在が欲しかったな~と思う。自分を低次元から引き揚げてくれる存在がとても大事なんだな、という事に気が付いた。

二、形式にこだわりすぎた
ここでいう形式っていうのは、勉強法のこと。当時の僕は勉強法マニアになってしまっていたかもしれない。ネットで過去の合格者の勉強法を調べて、うのみにしてやっていた。でもよくよく考えてみたら、その勉強法で合格できた、というのは単純にとらえすぎ、そのやり方とその人の個性があっていたからこそ合格できた、っていうのが事実に近い気がする。当時はそんなこと考えもしなかったので、このやり方でやれば成果が出るはず!という風に妄信的になっていたな、という印象。

三、完璧主義
この前、ある後援会に参加した時に聞いた内容なんだけど、
「人間って不完全な存在、だから面倒くさがりだし、ろくでもないことをしたりする。だからこそ、自らの不完全さを認めないと完全になることはできない。」
この内容、当時の僕に聞かせてあげたい!例えば、勉強計画。その計画は、基本的に、調子が良い状態をずっと保っていないと遂行できないものだったし、一ページにつき何分かかる、とか精密に考えないで組んでいたものだったので、相当ひどかった(笑)。これも自分があたかも完全なスーパーマンだと思い込んで作っちゃったんだと思う。いやいや、君はごくごく普通のめんどくさがりな高校生ですから!(笑)計画をこなせない自分に対してイライラすることも多かったし、こなせないから計画を立てる意味すら見失っていた。他にも、問題集を何周するのかっていうところで、できない問題、解けないかもしれない問題だけを何周もすればいいのに、僕は明らかに解ける問題まで解いていた。これは完全に時間のロスなんだけど、完璧主義の僕にとっては、解かない問題があるなんて気持ち悪い!という風に我慢ならなかった。(笑)

四、アウトプットの少なさ
最近、アウトプットが話題になってるけど、僕の受験勉強はアウトプット不足、インプット過多に陥っていたかもしれない。数学の問題集で「青チャート」っていうのがあって(理系で受験した人なら一度は耳にしたことがあるのでは?)僕はこれを何周もしていた。数学の基本的な解法を身に着けるために、同じ問題を解法が身につくまで何回も解くんだけど、これはアウトプットの作業というよりはインプットの作業だったな、と思う。アウトプットに当たるのは、見たことのない問題に対して身に着けた解法を試す事なのではないかと思われる。数学に投資した時間は多分全体の5割くらい言っちゃうんじゃないのかな、ってくらい数学勉強したんだけど、ある程度のところで頭打ちになったのはアウトプット不足、新しい問題に取り組まなさ過ぎたことが原因なんじゃないかと思った。


こうして振り返ってみると、過去の自分に教えてあげたくなる(笑)

でもそんなことできるわけじゃないし、やっぱり自分よりも前に受験生活を体験している人にアドバイスをもらうべきだったのかもしれない。


浪人生活

浪人生活、結構楽しかった記憶がある。勉強以外の煩わしい事を考えなくて済むので。毎日予備校に通って授業受けて自習室で勉強して帰宅するという毎日。一時期、体調を崩して一週間ほど予備校行けなかった事がありそこで健康の大切さに気が付かされたり、シンプルに授業が面白くて塾への偏見が改められたり、将来について時間をかけて考える時間になったり(結局答えは出なかったが)。第一志望の大学には入れなかったけど、浪人生活はかなり有意義な期間だった。

特に忘れらないのが、理の授業で先生が言ったひとこと

「この世で勉強ほど面白いことはない」

その先生は教え方がすごく上手でわかりやすかったし、いわゆるカリスマ講師だった。これを聞いたときの僕は「そんなことを断言できるなんてスゲー!!」って思った。今思うと「勉強は大事」と言ってくれる大人はいても、「勉強は楽しい」って言ってくれる大人はその人しかいなかったのかもな、と思う。今大学に入って僕も「勉強って楽しい」思えるんだけど、そう言ってもらったからこそ勉強を楽しめているのかもな、と思いました。

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なんか「過去の自分にアドバイスするとしたら」っていう視点で振り返ってみると考えが進んで、とても楽しかった。腑に落ちたのは「自分がなんでも人の手を借りずにやろうとする」性質があること。そしてそれは自分の中の自立欲求が根源だということ。そういわれると確かに、水泳部部長をやっていた時もそうだったな、とか一人暮らしすることに異様にこだわっていたな、とか高校の理念が「自由・自立・自律」だったなとか思い当たる節がちらほら。

次回は多分【大学一年編】という事で振り返ります。近すぎて客観的に振り返るのが難しいかもしれないから、もしかしたら他のタイトルにするかも(笑)

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