12年前の11月。 野球部を引退した僕は、寮を出て一人暮らしを始めた。 家賃は4万。 六畳一間、浴槽なしシャワーのみ。 駅から徒歩30分以上で日当たり最悪、 そんな場所から、2度目の「シューカツ」が始まった。 ここで1度目の失敗に目を向けてみる。 ①「この会社に入りたい」以前に、 「地元に帰るか東京で働くか」を決めきれなかった。 ②「シューカツ」そのものへの嫌悪感がすごかった。 ①・・・この決断こそ入口にして最大の分かれ道だったのだが 自分の生い立ちと性格
就職活動1年目、夏採用もほぼほぼ終わり、 「就職留年」が確定していた頃。 そんなとき、母親から電話があった。 「おばあちゃん亡くなったよ」 僕はかなりのおばあちゃん子だった。 幼い時から育てられ、お小遣いをもらい、 テレビのチャンネルの取り合いでいっぱい喧嘩もした。 僕がジャイアン的に癇癪を起こして怒鳴っても、全く引けをとらない 強心臓ばあちゃんだった。 そんなおばあちゃんが亡くなった。 最後に病院で会ってか細い声を聞いたとき、 祖母の死期が近いことはなんとなくわか
野球を始めたのは9歳のとき。 父親が初めて連れていってくれた プロ野球のオープン戦がきっかけだった。 コンコースからグラウンドが目の前に 広がっていく興奮を、僕は一生忘れない。 そこから夢中になってバットを振って、 ボールを投げた。 嫌なことはあっても、野球がある限り、 人生の迷いは一度もなかった。 そんな野球とお別れしなきゃいけないことを 覚悟したのは21歳の冬。 就職活動だ。 この時期が人生で一番辛かった。 プロ野球選手以外、夢なんてなかった僕に 行きたい会
高校3年間は自分にとって宝物だ。 実力で120人以上の部内競争を勝ち抜き、 誰も期待していないところから、2年生でレギュラーを掴んだ。 自分のせいで負けた試合、自分の活躍で勝った試合、 どちらもかけがえない経験だ。 グラウンドから見える風景、部室の匂い、汗の匂い、 恐怖と期待の混じった緊張感、仲間とのくだらない会話・・・ 2度の甲子園出場。 15歳で親元を離れた僕は、自分1人でなんでもやれるんだと 本気で思い込み、目標を一つずつ叶えていった。 きっとその成功体験は
受かるかわからない推薦入試。1次は書類審査だった。 学業やスポーツ、文化的活動で自信があるものをアピールする。 方法はいたってシンプル。 自分が載っている野球雑誌や新聞記事を片っ端から集める。 そして自分の名前やコメントを蛍光ペンでなぞっていく。 枚数が多ければ多い方がいい。 どうやってそんなものを集めたのか? きっと親が知り合いに頼んでくれたのだろう。 そう思っていたが、実は両親はこっそり集めていたみたいだった。 自宅で記事のわずかな一文、スタメン一覧、 2塁打を打
生まれ育った街を出る。遥か遠い関東へ行く。 自分にとってはそれほど難しい決断ではなかった。 理由は以下の通り。 ①野球を真剣にやるのであれば当然「入寮」することになる。 実家を出るのであれば、距離は関係ないと思っていた。 ②親との会話がなくなっていた ③日本で最激戦区と言われるところで「高校野球の最高峰」を 経験したかった ④自主性を重んじる風土があった。 ②の猛烈な反抗期が後押ししたのは間違いない。 はやく自由になりたかった。 その高校は、いまでこそ全国的
父との会話がないまま、僕は中学3年を迎えていた。 お互いに会話を避けていたわけではない。 父はふとしたときに数回、話しかけてくることがあった。 だが僕は一方的に無視をした。 問いかけであっても、全く反応しない。すぐに自室へ。 「お前とは会話しない」「俺はひとりで生きていくんだ」 思い上がりも甚だしいが、当時の心境はだいたいこんなものだ。 途中からもう後に引けなくなって、 何年もこの状態が続いた。家族全員がそのことに慣れていた。 僕は逃げたのだ。自分の過ちからも、父から
中学2年生を目前に控えた3月、僕の鬱憤は溜まりに溜っていた。 元々持っていた強烈なエネルギーを、学校で発揮できない日々、 息をひそめながら、自分を殺す中で、ひとり悶えていた。 そして僕は人生で取り返しがつかないことをした。 詳細はここでは伏せるが、とんでもなく姑息で身勝手な不祥事だ。 気弱な同級生のひとりに、とんでもない迷惑をかけた。 理由はひとつ。 これまで勝手に押さえつけていた自分の存在を見せつけたかったのだ。 「本当の俺はこんなヤワじゃない」「もっと悪くてイケて
前回私がジャイアンだったという話をさせてもらったが きょうはそんな問題児に訪れた転機のお話。 小学校を卒業した僕はそのまま地元の中学校に進学することになる。 その直前、事件は起きるのだ。 なんと父親が異動で僕の中学校に転勤してきたのだ。 「なぜこのタイミングで?」 想像してみてほしい。家で一緒に朝飯を食べた後、登校したら父親が 学校にいるのだ。ダサいジャージを着て、朝礼でしゃべったりするのだ。 いろんな人から「あいつは〇〇先生の子ども」という目で見られる。 友達か
投稿の間隔をあけないことが大事なのにいきなりあけてしまった。後悔。 しばらくは「ふと思ったこと」と「自分の人生振り返り」をテーマに書いていく。自分の脳を整理したいのと書くことを日常にするために。 1990年、僕は田舎の町に生まれた。とは言ってもポツンと一軒家に出てくるほどの田舎ではない。最寄りのコンビニまで歩いて25分くらいの田舎だ。 父親は体育の教員、母親の仕事はいまいち理解していなかったが、基本は専業主婦みたいなものだったと思う。 幼い頃の思い出は、今は亡き祖父が軽ト
今年の夏の甲子園が終わった。 朝夕の2部制、水休憩、タイブレーク制の導入など、球児を取り巻く環境は 少しずつ変わっているが、プレーする選手の情熱と、観衆・視聴者の関心は変わらない。 16年前、僕は確かにあの場所に立っていた。 記憶は正直曖昧だ。 ・グラウンドから見える絵画のようなスタンド、 ・地鳴りのような歓声、 ・バッグに入れっぱなしにして試合後真っ黒に変色したバナナ、 ・「自分は今世界の中心にいる」という夢心地 ・「あっ、これより上のステージは厳しいな」という悟りの