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あなた生まれてないわよ 村上春樹『猫を棄てる』

母の後ろからみていた。たしかにみていた。

真紅のオウムが油くさい新聞紙に包まれている。母はそれを抱き抱えると、庭先にでた。東北の夏はどこか他人の家のような、よそよそしさと静けさに覆われている。その日もしんしんと皮膚をひりつかせるようなひよりだった。

僕は、背中というよりも、足下というよりも、母の後ろの「全体」からみている。僕は知っているのだ、とそのとき強く思った。そう思ったんだから仕方がない。その女はオウムを埋めにいくのだ、と僕は知っている。

あなたは生まれてないわよ。あなたが生まれる前にオウムは死んだのよ。化粧台の前に座って母はいう。マニキュアやコロン、ファンデーションの容器が並んだ台をみて、都市のようだと思った。母はこちらを見ることもなく、笑うでも、驚くでもない。ただ、鏡をみている。だってその時はまだ産んでないんだから。せわしなく女は顔をつくっていく。誰に会いにいくの、とは聞けない。聞いちゃいけない。だから僕はただ、口に任せて話をする。劇的に、あるいはクリティカルに。あの真っ赤な、けれどどこか黒さが混ざった唇の女は、母ではないのだろう。

母は庭先に出ると、石段を登っていく。オウムをつつんだ新聞紙が母の皮膚に張り付く。僕の頭よりも大きいオウムだ。鼻だけが白く、それは垂直に落下したような鼻だった。母は水色のワンピースに、まっしろのスニーカーを履いている。青白い脚がきわだって青白く見える。

手頃なぼうきれを左手にもち、宙をかき回しながら、蜘蛛の巣に身体が絡めとられるのを避けようとしている。それも知っている。庭のいちばん大きな木の下にいくと、どうしてか、そこにはすでに穴があった。母はその穴を睨むようにして見つめていた。それは数十秒だったかもしれないし、数時間だったかもしれない。短くもあり、長くもあった。

母はクローゼットからベージュのブラウスを取り出して、首元にあてた。お話ししましょう、というのは母の口癖だ。仕事から帰ってきて僕が出迎えると決まってそういう。30分しかないんだけど、お話好きでしょ。うん、好きと子供らしくいう。

子供らしくないガキだな、と誰かがいった。女は男にすがるようにしてローバーミニの前で抱きついた。

母は穴にオウムをすっぽりとはめた。本当にオウムの形にあいたような穴だった。母はまたじっと見つめている。その新聞紙の奥に黒くなったオウムの体を想像する。彼女は悲しくなかった。僕はそれも知っている。悲しくなかったのを悪いとも思わなかった。けれど、どこかでみたドラマのように、名前を呼んでみる。

オーちゃん、オーちゃん。ごめんね。

ごめんねというと、どこか私が悪いような気持ちになったのか、母は悲しくなったきた気がした。ごめんねと繰り返す。背中が小刻みに震え始めるのがわかった。彼女は、おんおんと泣いた。僕は気まずくなった。あたりを見回したが、誰もいなかった。祖母は民謡を習いに行って留守にしていたし、姉は応接間のピアノの前でミニカーをぶつけ合って遊んでいた。

私は一人で死んだオウムを見つけて、一人で死んだオウムを埋めたんだからと、上の唇が下の唇を食べるようにして紅を伸ばしながらいう。

泣き止んだ母は一度ゆっくりと呼吸すると、まっしろの足で土を思いっきり蹴り上げた。冷たい土が僕の目に入った。

村上春樹『猫を棄てる』を読んでいて、そんなことを思い出した。思い出したというのは適切じゃないかもしれない。それは記憶なのだろうか。僕は歪んでいる。僕が歪めば、世界も歪む。蝶の羽が高原のシロツメクサをゆらし、その揺れが、大都市で嵐を生むように。わずかな歪みが時を経て、大きな歪みを持つ。そして、その歪みに再び巻き込まれていく。

混濁した記憶が定かでなくとも、それが史実ではなくても、さして問題ではないのではないか、そう思う。きっと夢でも良いのかもしれない、そう思う。生まれる前だとしてもオウムを埋める「記憶」があるように、僕はそれを「経験」と呼びたい。

この作品において、幼い頃の「僕」が猫を棄てるという父との記憶そのものも、どこか不確かで、おぼろげだ。どうしてこれほど猫が好きなのに棄てようとしたのか。経済的な余裕もあるのに。どこか、そうだからそうなんですとしか言いようがない自己循環。つたを足首に巻かれて崖から落ちるように、どこか通過儀礼のような雰囲気すらある記憶だ。

浜辺に棄てられた当の猫どのはふたりを先回りして家に帰り、「尻尾を立てて愛想よく僕らを出迎えた」。「僕」はそれをみていた父の表情に目を奪われている。「その時の父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった」。

村上春樹の作品を読むと、いつもどこか夢のようだと思う。いいや、正確にいうと、夜半過ぎに夢から一時的に覚めた直後、意識が遠くにあり、まだ夢の輪郭がある感覚だ。そういうときに枕元においたノートにメモをとる。翌朝みると、現実からは逸脱している文章がそこにある。そんな作品だ。

今回の『猫を棄てる』を読んでいても、その感覚が強くなった。彼は、自身そのものの語りをもどこか夢的に描いている。ヒッチコックが「よく白昼夢を見る」というように、村上自身もそちら側の作家なのだと思う。

村上作品にとって、猫は冒険を促す水先案内人だ。今回の作品では、猫を棄てるという行為を通して、父の横顔をみた。その父は決して父権的な存在ではない。何がなんでも猫を棄てるとはならなかったのだから。そして、最後に記されている、松の木に登った子猫の話。そこで、父は不思議なくらい何もしない。この描写から大きな意味を見出すような、批評家然としたことはしたくないけれど、「僕」にとって、「村上春樹の作品」にとっての父という存在は、大きくないと改めて感じた。だけれども、村上春樹という自身の存在がここにあるということを因果的に示す必要条件であることには変わりはない、そう村上も割り切っているのかもしれない。

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