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砂漠のなかに 安部公房『壁』

砂丘の稜線を夕陽に照らされたソ連の戦車がこちらに向かってきた。

照らされ現れるや否や、濃紺の日陰に入り込み、消える。いや、消えたのではない、グゴグゴグゴとそんな空気の揺れが塊になって押し寄せてくる。

私は追われる身だ。

母と妹を連れていかねばならないが、どこにいるのか。声だけは聞こえる。学友はすでに砂の一部になっているものもいた。

私が遊んだ羊たちは黒い弾丸に包まれるように倒れ、砂に焼かれた。焼かれた毛が鼻をつく。

このイメージはどこからともなく僕の中に現れた。それはかつては記憶だったのだろう。高校1年生のとき、本郷の宿屋(赤いカーペットが敷いてあった)で皆で聞いた藤原作弥さんの話だったと思う。

白い髭をたくわえたそのひとから発せられる不明瞭な声、不明瞭ゆえにイメージは際立った。それは追憶を追憶するというかたちで変形し、歪められ、再び整い、僕の前に物語として、現れ直した。

どうしてだろうか。こんなに悲しい話であるのに、砂漠に惹かれるのは。

今になって強く思う。五木寛之がどこかのエッセイにシルクロードで行き交う人々と本を交換するという話が出ていたときも、風呂屋のタイル画に砂漠を発見したときも、砂漠はそうだった。

安部公房の作品を読むと砂漠を強く感じる。『壁』の第一部、S・カルマ氏の犯罪は曠野を胸の中に飼ってしまう話だ。それは現代人の心が曠野のように荒んでなどという話ではない。むしろ、曠野に引かれている、ノスタルジーとしてあるような気がする。『砂の女』の男も、最後は砂の中にとどまることを決める。

安部の過剰さは遠慮なしの過剰さだ。博士同士の会話も物同士の会話も、苛立つほど過剰だ。不快といってもいいほどだ。けれど、その意味がない会話の過剰さが示されたことが、この小説の新しさであったのかもしれない。

小説は世界観の提示だ、とは誰かが言っていた。意味ではない、世界観だ。そこを履き間違ってはいけないと、思う。

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