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【わるくちの地獄】ー「まなざし」から「行動監視」、その先の「ネットリンチ」

「個の時代」が抱える一つのリスクに、ソーシャルメディアがある。今や誰しもが複数のソーシャルメディアアカウントを運用し、情報を収集し、発信を続けている。リスクの点で気になるのは、「裏垢」や「闇垢」の存在だ。

「裏垢」は、個人によって運用されているにもかかわらず、顔・名前・性別・職業全てわからない。架空に設定した人物になりきり、自身の身体と乖離するがゆえに、いとも簡単に、暴力的で批判的な牙を向く。

ソーシャルメディアの特徴は、「裏垢」を運用する個人からでも「特定」個人に対して、ダイレクトに送りつけることができることだ。掲示板に書き込まれるのではなくて、個人の発言に対して、ダイレクトに書き刻みこまれるのだ。

もちろん、そんな声は無視すればいい。みなければいい、という人もいる。ただ、ソーシャルメディアで厄介なのは、応援や賛同のメッセージも、誹謗中傷のメッセージも、同じ形式で届いてしまうことだ。選別するのは、機械ではなく、アカウントを運用する個人になる。だからこそ、通常の運用をしている限り、「みえてしまうのだ」。

https://www.bbc.com/news/world-asia-52782235 

木村花さんのあまりに早すぎる死は、twitterアカウントに寄せられた誹謗中傷が何らか関係していることが推定される。死の直前に投稿されたinstagram やtwitterの内容は、そのことを伺わせる。

何らかの対処をしない限り、これからもこのような痛ましい死は、起こりうる。

今、理解しておくべきことが一つある。それは、ソーシャルメディアが「まなざし」から「わるくち」へと、つまり、「視線」から「暴言」へと、暴力性を高めてしまっているという事態なのだ。

発言することがリスクになった。この投稿も批判の的になりえる。それを承知で覚悟の上で書くのだ。

社会は、諸々のコミュニケーションの集積から構築されている。人びととの「関係性」の作法を共有して、社会を維持している。

もう「裏垢」や「闇垢」の運用は、やめよう。社会にとって何一ついいことはない。もし、SOSの声を上げたいなら、しかるべきところに「相談」をすべきであって、「闇垢」に呟いても問題は解決されない。

リアルとヴァーチャルの「境界」はなくなった。マニュエル・カルテルが情報社会論で述べていた「リアル・ヴァーチャリティ」の世界を理解し、法制度の改正も迅速に行う。

今、現在も、発信者情報開示請求によって投稿者の住所や氏名、電話番号などは、特定できる。しかし、それでは遅すぎる。大きな痛みを伴うイタチゴッコを続けるのではなくて、事前防止策が必要だと言える。

もちろん、ソーシャルメディアを全て「実名」運用とすることにもリスクがある。特定の個人情報が漏洩してしまう危険性と隣り合わせだからだ。

音声認識、文字認識、画像認識。AIを駆動させて、まず、暴力的な誹謗中傷は、投稿できないようなプログラムを組む。

この問題は、何も「著名人」に限ったことではない。クラスメートとLINEでつながり、「裏垢」で「わるくち」をつぶやく。誰もが被害者となりうる身近な問題なのだ。

「わるくち」が備え持つ、暴力性が麻痺するほどまでに、日常的に心ない言葉を発し続ける。そして、ある時、そうした無自覚な暴力性が束になり、ある特定の個人を奇襲する。こんなことはあってはならない。

社会はその都度、問題に向き合い、修正をしてきた。アジャイル型で再生産を続けている。今回の痛ましい死は、本人の精神的な問題や リアリティショーの特性といった「個別の事象」として理解するのは間違っている。

問題は深くて本質的で、構造的なものだ。誰もが複数アカウント運用するようになった可能性の中で法制度や社会認識が追いついていないからこその「間隙」を突く悪質な暴力なのだ。

世界的な活躍が期待された彼女の死を、私たちの問題として受け止める。それができないのなら、ソーシャルメディアの可能性なんて、ないに等しい。

人を傷つけることを進化させる日常は、いらない。

どうやら、私たちは見田宗介さんが1973に書き上げた『まなざしの地獄』よりも、直接的でかつ暴力的な社会を生きている。

『わるくちの地獄』は、一望監視がきかない。どこからでも暴発するコントロールの効かないパノプティコンだ。

だからこそ、この地獄を生きる私たちが、「わるくち」をいかに「まなざす」のかが問われている。

今、傍観の証人となるなら、暴力的な言葉を発した無自覚な「裏垢」の民と、たいして私たちは変わらない。








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