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安いニッポン:再考

昨年末に日経新聞で行われた「安いニッポン」という特集記事が注目を集めた。この特集記事では海外との比較で日本の土地や物価、そして給与が割安に放置されている現状を例を交えながら描写している。日経以外のメディアでも日本という国の給与の安さや物価の安さが話題になることが増えている。

日経新聞の「年収1400万円は低所得」人材流出、高まるリスクという記事では、

「日本って給料安いんじゃない?」。昨春からジャスダック上場のソフトウエア開発会社で働く香港出身の楊燕茹さん。日本行きを相談した時の両親の心配そうな顔が忘れられない。米国でシステムエンジニアとして働く弟の給料は楊さんの4倍だ。
「安い日本人」は世界で人気だ。「日本にいるエンジニアに払う費用は、感覚的にはシリコンバレーの半分だ」。米カリフォルニア州にあるIT関連スタートアップ企業の経営者は、スキルや納期への意識も高い日本のエンジニアの採用を増やしている。

他国と給与比較を行う場合は共通の物差しである米ドルに換算して行う。120万円の給与は1ドル100円の場合は1万2000ドルだが1ドル120円になると1万ドルに減価してしまう。つまり円建てでは同額の給与が為替レートが円安に振れることによってドル建てでは減少するのだ。当たり前の話だがきちんと為替レートの影響を明示している記事は少ない。

Back to 2012

第二次安倍内閣が発足する前の為替レートを覚えている人はいるだろうか。2012年12月26日に第二次安倍内閣が発足する前の為替レートは1ドル80円だった。その後に黒田日銀の異次元の金融緩和政策を経て2014年末には1ドル120円まで円安は進むことになる。

日本にはアベノミクスとは逆の政策を取る選択肢もあった。金融を引き締めると同時に、財政もプライマリーバランスを重視して引き締める。その場合、為替レートは1ドル50円台に突入したかも知れない。リーマンショック後に米国で行われた大規模金融緩和による円高で自動車を始めとする国内の製造業は苦しんでいたため実際にはそのような政策を選択する余地は無かったのだが、1ドル50円という為替レートは今思うよりもはるかに現実的なものだった。

もし、今仮に円高になっていて1ドル55円だったとしよう。いま4万ドルの一人当たりGDPは8万ドルになる。これだとノルウェーに次ぐ水準の数字で世界トップ10位内に余裕で入る。日本人の給与は割安、安い日本などと決して言われないレベルだ。但しその場合、国内の産業構造や社会も大きな影響を受け、現在の状況とはまったく異なっていただろう。

国内の自動車生産台数は約1千万台でそのうちの半分の5百万台を海外に輸出している。もし現在の1ドル110円の為替レートが半分の55円だったら、そのような産業構造は維持できない。国内生産は2~3百万台まで落ち込むだろう。特に販売台数を稼げる大衆車の生産は難しくなる、付加価値が高い高級車の生産は何とか維持できるかも知れない。一方、輸入車は安くなる、現在5百万円のフォルクスワーゲンは3百万、1千万円のメルセデスは6百万ぐらいで買える。もちろんそれで嬉しい人もいるだろう。

政策のトレードオフ

問題はそのとき日本社会はどうなっているかだ。我が国の基幹産業である自動車産業に従事する労働者は5百万人以上、その半数である250万人は職を失うだろう。そのうちの一部は高付加価値産業であるIT産業などへ流れて行くだろうが、大多数の人は同じ給与水準の仕事を見つけることは困難だ。結果、社会不安は高まりやがて政治にも波及していく、アメリカでトランプ大統領を生んだようなムーブメントが日本でも起こる可能性だってあった。

良く評論家が日本もアメリカのように製造業からITなどの高度付加価値産業へシフトしていくべきだなどと講釈を垂れたりするが、ITと製造業では雇用吸収能力がまったく違う。IT産業に従事して高給を得る少数の人々とそれに対応できずに底辺に沈む大多数とに社会は分断されてしまうのである。結果、今でも格差社会と言われているのに、現在とは比較にならないレベルで社会の階層化が進むことになる。

だが我が国はそのような選択をしなかった、黒田日銀は異次元緩和を進めて円安を誘発、国内雇用と社会の経済的、政治的な安定を重視した。この政策選択は必ずしも明示的なものでは無かった。そもそも、自国の通貨安を選好することは各国の通貨切り下げ競争を招く恐れがあるため国際社会から厳しく指弾される。そして有権者も後付けだが総選挙でその政策を支持したのである。

まとめに入ろう。我が国の通貨安はアベノミクスによって意図的に引き起こされたものであり、得たものは国内雇用やインバウンド産業、失ったものは我が国の対外的な購買力だ。これからどうするかは有権者、政治が判断することだ。事態が国内の専門的で高度な能力を持つ労働者の外国への流出ということになれば政策は見直されるかも知れないが、そのときに円安の修正能力がまだあるかどうかは分からない。東京オリンピック後にアベノミクスの本当の評価が定まるだろう。


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