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自分史 Vol.2

自らが選び取ってきた心地良いものを交えながら、Vol.2は主に10代の前半について綴っていこうと思う。前回に続いて、まずは思い出深い1曲から始めるなら、最初に買ったCDはEvery Little Thingの『Every Best Single +3』だった。

両親と一緒に行っていた修学院のTSUTAYAで、初めてEvery Little Thingをレンタルしたのは『Over and Over』のシングルだったはずで、今にして思えばすごい曲を引き当てたものである。いわゆる恋愛の曲が流行った時代に、普遍的な愛について歌ったこの曲は、五十嵐充が作曲という以上の意味でコンポーズしていて、上に挙げたMVの画こそ90年代を感じさせるものの、その世界観は全く古びていない。個人的には、3:00前後からの間奏において映る、伊藤一朗のギターソロよりも、五十嵐充のピアノソロよりも、裏で鳴っているシンセサイザーの音に、当時は耳を聳てていた。

音楽はまた別でまとめるとして、本題の自分史に戻ると、これだけ音楽が好きとはいえ、件の小学校で4年生以上は全員参加するクラブ活動の中で、吹奏楽を選択するほどの度胸はなく、文科系のクラブで残された料理,漫画,自然科学という選択肢の中から、3つ目を選ぶことになったのは文字通り自然なことだったと思う。後年、中学校で入った「科学部」(冷暖房の整ったパソコン室でゲームをするだけの部活)とは違い、自然と名が付くだけあって(?)、体育館裏の畑で焼き芋をしたりするわけだけれど、自分で楽しい方を選んだ原体験の一つであった。何かの技術を習得するとか、知識を向上するとかいったことだけが学びではないとすると、焼き芋やべっこう飴やスライムやプラ板は、口に入るか学習机の引き出しに入るかした後、消えてなくなったわけではなくって、こうしてきっちりと心に残っているのだから、良いクラブ活動だったのだと思う。記憶が鮮明な理由にはもう一つあって、それは6年生のときに自分がクラブ長に任命されたことも大きい。投票か何か民主的な方法で決まった任務だったのを、子どもながらに果たしたというか、何でもやって良い自然科学クラブにおいて、これまた民主的に正の字を書いて、1年間の計画を立てるという正解のない大仕事をしたから忘れられずにいるのだろう。その後の人生においても、何かの長を務めることが多かったのは、純粋に有り難いことで、そこに立つことで初めて見える目線が、その後人生の転機において、本当に役立ってきたと思っている。

そう、全てを自分で選び取ってきたわけではもちろんなくって、後から振り返ってみれば選ばずして通った道が長いものになっていたこともある。父親が活動していたボーイスカウトがその一つで、私は小学校2年生から始めて指導者の立場まで、約20年携わることになった。体力はもちろん、縦の主従関係が強い組織での振る舞いも大の苦手だった中で、技術的なことは地図を読むことと火を熾すことくらいしか手元に残っていないけれど、出来ない自分と向き合うことや、価値観の違う他者と付き合うことを学んだと、今は解釈している。隊列から離れ、最後尾のリーダーと山道をとぼとぼ歩くのは本当に辛かったし、進級して最初の夏に40kmを2日間で歩き通したとき、最後の方では橋から落ちてしまった方が楽ではないかとさえ思ったけれど、それでも自分を保っていれたのは、もしかしたら6年生の頃に、学校生活で楽しい日々を送っていたおかげかもしれない。

小中学校9年間の学校生活を思い返すと、学校へ行くのを楽しみにしていた記憶が強く、それは交友関係の賜物だと思う。細かいところでは嫌な思いをすることだってあったけれど、山の上の小学校で穏やかに過ごした6年間、そして荒れていることで有名な中学校での3年間さえ、友人に恵まれていた。

再度Every Little Thingに力を借りるなら、『Someday , Someplace』1番の歌詞はまさに当時のことのようで「自転車でどこへでも行けると信じていた」というか、みんなで自転車に乗って山の上にある平らな町を走り回るか、家に集まってゲームをしたり漫画を読むかしていた。「誰かの家」と「自分の家」で言うと私の場合、半分以上が後者で、母親から居場所がなくて困るとよく言われたくらい、大人数で遊んでいたのを覚えている。何かと集まるのに都合が良い造りの家だったこともあるし、自分自身が楽しいものを皆にシェアしたいという思いが当時から今に至るまで強かった。

友人達も飽きずに集まってくれたものだと思う。それぞれの友人に仲の良いグループがあって、私みたいにそれらを横断するやつは珍しかったようだけれど、感謝の念を込め、家の立地から思い浮かべられるままに名前を挙げるなら、ヒサヒト,ジュン,ノリヒロ,コウジ,リヒト,ヨシヒデ,ヤスアキ,ヒロユキ,ツトム,ワタル,ミツル,リュウスケ,シュンスケ,タクヤ,サカエ,ダイスケといった辺りじゃなかっただろうか(こそっと追記するかも)。いろんな個性ある顔に囲まれて遊んだのは有り難い限りで、この内の何人もが、繋がりを持ち続けていてくれるから、今があると言って過言ではない。

遊んだこと自体、自分の血肉になっているとも言える。例えばゲームなら、シムシティ2000は町作りと人口増減の関係性に加え、財政の仕組みまで踏み込めば大の大人であってもそう簡単に答えられないような社会的な要素を含んでいるし、半熟英雄は単純なRPG以上の戦略性や、個性的なキャラクターによる悲喜劇、そして無駄に豊富なボキャブラリーが、人間臭さを教えてくれたと言っても差し支えないだろう。また、車好きがレースゲーム三昧だったのは言うまでもなく、グランツーリスモでは車の仕組みと挙動の関係について、大袈裟に言うなら身体が覚えるまで走り込んだ。

皆で回し読んだ漫画が数ある中、何度も繰り返し読んだのは手塚治虫のものだった。10歳になるかならないかで読み出した『ブラックジャック』、その後に読み進んだ『火の鳥』,『ブッダ』の3作は、これまでの半生で読んだどの本よりも、私の死生観に影響を与えている。法を超えた無免許医を訪ねて来る患者達、時空を超えた八百比丘尼に助けを求めて来る魑魅魍魎、悟りの境地を得たブッダに教えを乞うて来る諸国の人々、そのどれもが読んでいる読者そのものであると気づいたのはずっと先のことだけれど、命が連綿と続いていること、そしてそれは生きたいと願う力の現れだということは、この頃から知っていたように思う。自分を含めたどんな命も、誰かから渡されたバトンを次の誰かへ渡すまで、つまり生まれてから死が訪れるまで、生きることを選び続けていると教えてくれたのは、手塚治虫だった。彼の生家がある宝塚は、たまたま前田の菩提寺でもあって、墓参りの後は手塚治虫記念館の前を通ってピザを食べに行くのが、子どもの頃の楽しみであったのは、ただの偶然かもしれないが、命の話が自然と語られる今の時代においても色褪せない作品を、多感な頃に読んだことは本当に有り難いと思う。

とはいえ、多感な時期に超然と生きていたわけでは決してなくって、年相応に色々な心の動きもあって、そんなときに助けてくれたのはやはり音楽だった。曲の数々を詳しく紹介するのはVol.3に譲り、人生で一番傾倒した音楽家である浜崎あゆみが、つい数日前に挙げた『A BEST』をなぞったライブ映像で、今日は筆を置こう。中学校を出るまで、浜崎あゆみを聴いているとは友人にも言わなかったのは、恥ずかしいという思いと、流行り過ぎてしまったからというのもあったんだろうと思う。まだ、好きなものを好きとはっきり言えなかった頃の話。

当時の私は、1曲目の『A Song for xx』を始めとして、こんなことを歌にして良いんだ、という驚きとともに赦しを得たように感じていて、自分の中にあるモヤモヤとした感情を投影しながら、浜崎あゆみの成長とともに歩んだと言っても過言ではない。人気沸騰直前の『TO BE』がもっとも心に染みるのは、抱いていた恋心ゆえでもあるけれど、このライブがシングルのリリースに近く、当時の質感を思い出させるからだろう。浜崎あゆみ以外の誰にも書けない歌詞だと思う。

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