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栗原康さん(政治学者、アナキズム研究)後編・6

思い込みは何度も捨てていい

栗原:でも、そうなんですよね。一遍だと「人間じゃない、仏になれ」という発想なんですけど、常に人として植え付けられている常識ではなくていいという。例えば不道徳に開き直るのはちょっと怖くてできないと。それができなくてダメだなというときにでも、それができなくっても「ダメ」にだって開き直るさ、というところです。

――相手がとか、社会がとか、人が人と比較して判断するところに落とし穴がある。全部自分から始まるのか…。

栗原:そうですね。もちろん全部自分からはじめても、それがまた尺度になるような。さっきの不道徳な、それで行こうというときに、「行かなきゃいけない」「不道徳じゃなくちゃいけない」となっちゃったらそれも縛りですよね。

――ええ。それも嘘くさくて無理がありますね。

栗原:そういうのを何度でも捨てていいんだと。

――だから一遍は意図してそうなったわけでなくて、自然とそうなっちゃった?

栗原:そうですね。念仏に縛られる自分からも捨てていくぞということで。そこから歌から踊りへ。それがまた有名になったら教団を作りましょうみたいな声が出てくるけど、それすらも捨てようという。

――「われひとり」から始まって、「われひとり」が勇躍歓喜して、だからみんなで踊ればそのほうが楽しいんだけど、極端を言ってしまえば、誰も乗ってくれなくても自分一人でも踊る。

栗原:それもまた、「ひとつになれないよ」なんですよ。

――でも不思議なもので人間ってやっぱり誰かが、それこそ確かスティーブ・ジョブズが紹介してたと思うんですけど、誰かが本当に喜んで踊っていると、やっぱりそれと同じ気持ちを抱えている人がいて、踊り仲間が登場する、みたいな。

栗原:そういう共鳴のしかたがすごく大事だと思うんですけどね。それが本当に人を助けるということかもしれないです。

――なるほどなぁ~。

栗原:意識せずに。一遍の場合はそれがたぶん念仏を融通していくのがそういう感じだと思います。

――有用性、ってそういう意味では本当に幅が広いですね。そう考えるといろんなかたちで。僕自身にも現代的な有用性の観念の縛りがあって。

栗原:もちろん。僕もありますしね。

――ええ。比較とか、よく見られたいとか。別に良く思われなくてもいいよと思ってみても、どこか不安とか、ひとりぼっちだと寂しいとか、いろんな、どこまでいっても他人の目を意識してる自分がいる。そんな感じ。それを意識して振りはらうというのはそれも不自然なんだけど(笑)。でも気づきとしてはそこなんでしょうね。

栗原:だからいつ捨ててもいいんだというのがたぶん、いつ縛られても、その縛りを捨てていいんだということ。

――うん。ただ踊り念仏がいいのは床板踏み外すくらいで、他者に対して暴力行為を働かないというところ。でもそれすらやっぱり現代的な秩序から行くと、危険分子の行為なんだよね。これがなぁ…。

栗原:いまの暴動だって、モノをぶっ壊して「やあ~」と踊り騒いでいるわけですからね。

――踊ってるだけでおかしいと。まあ普通たいがいの人は周りの目を意識して「おかしいことはやめましょう」って自己判断で自己規制をかけますけど。

栗原:本当は一緒に踊りたいところでしょうけどね。

――でもね。公園とか行くと若い人が楽器弾いたり、歌ったり、踊ったりしてるから、やっぱり若いし、エネルギーもあるし、すごく管理されてる世の中だけど、身体が求めてるというか、どうしても形にあらがっちゃう。

栗原:歌とか踊り。楽器にはそうした力があるということですね。


「暴動ダンス」

――だからロンドンのパンクも最初のピストルズが出てきて1年ぐらいの間はすごく解放感があったけど、だんだん…。

栗原:うん。同じことをやる。

――はい。形式ができてきて、はじめた本人がすごく批判する、みたいな風になっちゃいましたけどね。

栗原:一遍もたぶん踊り念仏に同じことを感じたはずですよ。同じことをやって、形式化していけばそれをやれば救われる、みたいになっちゃう。

――一遍はそういう意味では踊り念仏がどんどん波及効果を及ぼしたあとって、何か「それじゃあダメだよ」みたいなことって言うんでしたっけ?真似だけするなよ、みたいな。

栗原:それは言わないです。むしろ好き勝手にやれと。

――じゃあ真似しても構わないという感じ?

栗原:むしろ「真似」が現代に残っていくんですね。各地で踊り念仏やって、たぶん村の人とか一緒に踊ってるから、最後残っていって、踊り念仏が次に「念仏踊り」って言って、宗教性を失っていくと念仏踊り。いまそれが「盆踊り」と呼ばれる。

――ああ、盆踊り。ああ~。最終的にはそちらになるわけですね。

栗原:だから民衆レベルの仏教の普及のしかたは実は一遍が一番広いのかもしれません。

――なるほど。いろんな祭りとか、踊りの。

栗原:起源。

――そう、起源は一遍上人だったかもしれないと。わかりました。そこらへんすごくキレイにまとまったような気がします。さすがに一遍さんまで回帰するのは無理だけど、でもどうでしょう?すごく現代的な質問の仕方に戻っちゃうんですけど、栗原さん、こっちのほうを書いたということは、伊藤野枝とか大杉栄の大ファンだろうし、アナキズムに可能性を見出してると思うんですけど、いまは「ライオット」じゃなくて「ダンス」だよ、という気分ですか(笑)。

栗原:いや、どこかひとつに限定する必要はないと思っています。踊りをライオットと言ってもいいんだと思います。「暴動ダンス」と言ってもいいのかもしれないし。

――クラッシュに「レベル・ワルツ」という曲があるんですよね。

栗原:そうですね。やっぱり暴動とかと、ダンスのイメージは近いのかなという気がします。

――やっぱりからだですか。つまり身体?

栗原:そうです、そうです。ロシア革命があったときに大杉とかが情報源にしていたアメリカの思想家でエマ・ゴールドマンという人がいたんですけど、その人がロシア革命が起こったあとに訪問団みたいな形で行ったときにもうバリッバリに中央集権的なものから出来上がっていて、ほとんど人が遊ぶ自由がなくて。そういうのを見て、エマゴールドマンが言ったのは、「ダンスもできないようなところで革命なんかない」って言ったりしてるんですけど。何かそういう意味では人が自由にウワ~と動いたりするのには、ダンスというのがなにかすごく元々親和性があるのだと思いますね。
(了)

                 2017.4.17 新宿の喫茶店にて。

栗原康さん
1979年埼玉県生まれ
東北芸術工科大学非常勤講師
                       (インタビュー後編後記)

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