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祝、母95歳

今日で母も無事95歳の誕生日を迎えました。
身体的にはかなり丈夫で、安定しています。
普通の同年齢の人よりもからだは健康だ、と往診に来てくれる主治医もおっしゃってくれています。
おそらく大病の経験がないことが長寿につながっているのでしょう。

父の頃から診てくれていた主治医の先生も高齢のため医師を引退したのですが、その先生いわく、大きな病気をしていなければ100歳まで生きられる確率が高いのだと。実際その可能性もあるかも、という気もします。ただ、認知症状が進んでいるので、普通の意味でのコミュニケーションなどがかなり難しく、そこがネックになるかも。

季節や日月、昼夜の別や場所などの見当識が怪しく、寒暖の感覚も落ちて、服の着方などの身なりがわからなくなってくる(セーターの上に下着を着ている)など、コミュニケーション以外の部分も、生活の基本能力自体が落ちているので、それがベースになって、身体的な悪影響も出てくるかもと心配するところ。

それらの気掛かりな点はデイサービスに通ってくれることでとても助かっています。今では客観的にみて要介護度は1から2プラスになっていると思いますが、要介護2になっても保険利用費用が上がるだけでデイサービスに通える日数も増えず、当面要介護度1でいくほうが良いというのがケアマネージャーさんのアドバイスです。本人も嫌がらずにデイサービスに通ってくれているのと、デイサービスの職員の人たちがみな献身的で、負担をすごく減らしてくれて大いに助かっています。

具体的なサービス内容は、月一回の往診、週1回の訪問看護、週1回の訪問リハビリ、そして週2回か3回のデイサービス。
特に9時から4時過ぎまでみていてくれるデイサービスの効果は大きくて、母もそこそこ疲れて帰ってきますが、「刺激」という意味では認知症の増悪予防に大きく貢献してくれてます。特に私が苦手とするシモの世話、リハビリパンツ(いわゆるオムツ)の交換をしてくれ、そして入浴タイムがあるのは助かります。最近徐々に自分で風呂に入るのも億劫がりつつあり、前は必ず私が入浴した後に入るという習慣だったのですが、本人がもう夜の9時には眠りに入るので、自分もなるべく早めに入浴しようとする頃にはすでにベットに入って寝ている機会が増えて、在宅での入浴の機会が減ってきてます。昔はショートスティを依頼したときでもかたくなに入浴だけは拒んでいた母ですが、今では気持ちよく出先で入浴しているようで。人の姿勢は変わるものだなぁと思うし、うまく入浴介助してくれているのだろうなと本当にありがたく思うところ。

そのような次第で、自分自身が介護者として胸を張れるかどうかは疑問ですが、ただ、やはり長年同居してきた母ですし、普通の意味のコミュニケーションが取れないのは(とれるのは、食事、睡眠、入浴といったベーシックなことのみと言って良い)やはり慣れません。普通に話が混濁しているわけで、時々誰々がきて僕にこうしろと言われたから私はやっているとか、不可解な行動にそのような言い分けをしてみたり。ただ、最近気づいたのは自分が朝仕事に出かける前とかに本人が寝ていると寝言にしてははっきりと、誰かと明確な口調で長々一人で喋っていたりするので、おそらく寝ていることと起きてからの「こちらの世界」と、母親の中では連続していて、夢と現実を区別する現実世界とは自ずと大きなギャップがあるのかもしれない。おそらく母の中では夢幻が本人の現実なのかもしれません。わかりませんけど。

そういった変容は子としてはやはり悲しいですが、悲しみに溺れても身が持たないので、全然違う脳の世界に生きている相手だと割り切るしかない。寂しさプラス諦めかな。簡単なことではないですが。で、当然ながら諦めの要素の比重が日々大きくなります。極端なことを言えばこうやって自然に今生の別れの前哨戦をやっているわけで、自分は5年、一応ながら母の最も長い時間のプライベートにおける認知症介護者生活をしていて、緩やかに人の生涯の終末期を共に過ごしている、あるいは過ごせているわけで、得難い体験もしているのだろうと思います。

札幌の我が家の状況はそんなところです。今年の札幌は例年よりも降雪量が多く、年末年始の厳しい寒さの後、先週はずっと吹雪で、すでに最も冬らしい道路状況になってしまいました。オミクロン株も出てきて、厄介な状況は変わらないですね。

なんだか最後は知り合いに送る私信のようになってしまいました💦

PS.お世話になりっぱなしのデイサービスさんですが、今日の誕生日に花と母親のための写真カードをくださいました。おそらく誕生日祝いもしてくれたのでしょう。ただただありがたいと思うばかりです。

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