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斎藤幸平 「人新世の資本論」 第五章6章 ノート

人新世の資本論、第五章、六章
 
第五章 加速主義という現実逃避
 
コミュニズムこそ人新世の時代に選択すべきもの。
 
しかし、コミュニズムといっても、いろいろな考え方がある。
本書では晩年のマルクスの到達点に沿って、「脱成長のコミュニズム」に立脚する。
 
加速主義とは?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/30 14:32 UTC 版)
 
加速主義理論は、互いに相違する左翼的変種と右翼的変種に分けられる。「左派加速主義」は、例えば社会的に有益で解放的な目的のために現代の技術を再目的化することによって、資本主義の狭義の範囲を超えて「技術進化のプロセス」を推進することを試みる。「右派加速主義」は、おそらく技術的特異点(シンギュラリティ)を生み出すために、資本主義それ自体の無限の強化を支持する[4][5][6]
1848年の「自由貿易問題についての演説」と題する演説におけるカール・マルクスを含め、多くの哲学者が明らかに加速主義的態度を表明している。」
 
“しかし、総じて、今日の保護貿易制度は保守的である一方で、自由貿易制度は破壊的です。自由貿易制度は古い国民を解体し、プロレタリアートとブルジョアジー間の敵対心を極限まで押し進めます。一言で言えば、自由貿易制度は社会革命を促進するのです。この革命的な意味においてのみ、みなさん、私は自由貿易を支持して投票するのです。”(マルクス)
 
「左派加速主義」ー経済成長をますます加速させることによって、コミュニズムを実現させよう、と考える立場。資本主義の持続的成長を追い求め、資本主義の技術革新の先にコミュニズム実現させよう、と考える。
 
 
アーロン・バスターニ 「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」
→途上国の人口増加や環境破壊。彼らに今の生活で我慢しろ、と言えるのか。
いや、近年の著しい秘術発展をもって活用すれば、こうした問題は解決できると考える。
 
・牛を育てるための広大な耕地をどうするか→人工肉で代替すれば良い。
・人々を苦しめる病気はどうするか→遺伝子工学を活用すれば良い。
・人間を労働から解放するロボットを稼働する電力はどうするか→太陽光エネルギーで賄えば良い。
バスター二によれば、自然的限界は存在しない。もちろん、現状では商業的採算に合わない。それでも、*「ムーアの法則」による指数関数的な技術開発のスピードで近いうちにこれらの技術が実用化されるだろう。
 
ムーアの法則⇨シリコン集積回路の集積密度が2年でほぼ2倍になるという経験則。1965年、米インテル社のゴードン・ムーアがプロセッサー・チップに使われるトランジスタ数が1年で2倍になると予測したことに由来する。その後40年間、このトレンドに沿って半導体技術が進展しているのは驚異的。これは、トランジスタの微細化・高集積化により、トランジスタの単価が下がると同時に性能も向上するため。今後も当分、このトレンドは続くと予想されている。(荒川泰彦 東京大学教授 / 桜井貴康 東京大学教授 / 2007年)
 
指数関数的な生産力発展を推し進めていけば、あらゆるものの価格は下がり続け、最終的には、自然制約にも、貨幣にも束縛されることのない「潤沢な経済」になると考える。
→近年、彼のような議論は「エコ近代主義」と呼ばれる。自然との共存よりも、自然を人類のために管理することを目標とする。
ここまで環境を破壊した技術を手にして、活用している以上、もう後戻りはできない。ゆえに今以上に自然を管理して人間が生存できる環境にしよう。「汝が手にした怪物を愛せよ」(ブルーノ・ラトール)
「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」(バスターニ)→エコ近代主義の問題は、その開き直りにある。ここまで環境危機が深刻化したのだから、今更後戻りができないという考え。
 
問題点.1
※デカップリングが困難である以上、コミュニズムになっても環境持続性と、経済成長が両立することはない。
新技術による効率化で「相対的デカップリング」が起きているように見えても、その効果はしばしば消費量の増加によって相殺され、無意味になってしまう、ジェヴォンズのパラドックス(P.75)がコミュニズムにおいても起きてしまう。
 
 
※デカップリングとは?
 
デカップリングは、連動性の強い二つのものを「切り離すこと、または連動しなくすること」を指す。農業分野や経済分野など、さまざまな場面で使われている言葉だが、環境分野とサーキュラー・エコノミー(循環型経済)の文脈におけるデカップリングを説明する。
サーキュラーエコノミーの文脈におけるデカップリングとは、すなわち「経済成長とエネルギー消費を切り離すこと」だ。地球の資源には限りがあり、人間が地球に与えることができる環境負荷にもまた限りがあるという前提のもと、経済が成長して私たちの生活がさらに便利になっても、なお資源を枯渇させず、環境負荷も大きくしない施策が今、世界中で求められている。具体的には、資源の循環利用やエネルギー多消費の産業構造の改革などによって実現が可能である。
デカップリングの議論が大々的にされ始めたのは、EUが2005年に「廃棄物の排出抑制・リサイクルに関する戦略」と「持続可能な天然資源利用に関する戦略」という二つの戦略を打ち出したころからだと言われている。当時は、限りある資源をどうすれば持続可能に使えるのか、に焦点が絞られていた。
時が経ち、英オックスフォード大学の経済学者ケイト・ラワース氏は、今の私たちが気候危機を阻止できる最後の世代だとし、二つのデカップリングについて説明した。
 
• 相対的デカップリング:水やエネルギーなど資源の利用効率を高め、GDPが資源利用の増加率を上回ること。
• 絶対的デカップリング:GDPの上昇と共に資源利用が絶対量で減ること。
 
同氏は、著書『ドーナツ経済学が世界を救う』の中でこう述べている。
「高所得国でGDPの成長が続いた場合、経済活動を地球環境の許容限界内に戻すためには、相対的や絶対的なデカップリングでは足りず、十分な絶対的カップリングによって、成長に関わる資源利用を減らさなくてはならない。」
 
 
問題点.2
加速主義のプロセスにおける問題
加速主義者が批判する環境保護運動ーたとえば有機栽培、スローフード、地産地消、菜食主義など。これらはローカルな小規模運動にしかなり得ず、資本主義のグローバリズムには無力だ、と左派加速主義者は素朴政治だと批判する。
ただ、バスターニは選挙を信頼し、国家が政策を誘導していく政治・政策によるコミュニズムのため、階級闘争の視点が消えてしまう。議会政治だけでは民主主義の領域を拡張できず、選挙政治は資本の力に直面したときに、必ず限界に直面する。
 
ゆえに、
資本と対抗する市民運動を通じて、政治領域を拡張すべきだ。
その一例が欧州で注目される「気候市民会議」である。
イギリスの環境運動「絶滅への叛逆」、フランスの「黄色いベスト運動」の成果から生まれた。
 
⚫︎気候市民会議(東京新聞記事 2021.5.3記事)
 
地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」のお膝元・フランスの議会で、温室効果ガス削減に向けた新法案が審議されている。下地になったのは、無作為に選ばれた150人の市民による「気候市民会議」の提案だ。9カ月の議論を経て環境問題に詳しくなった委員らは、政府に辛口の意見も突きつけた。「くじ引き型の民主主義」として注目される取り組みは、各国に波及しはじめている。(谷悠己=パリ、三宅千智)
 
【関連記事】<民主主義のあした>市民の意見を熟成させる「討論型世論調査」 議会制民主主義を補完するツールに
 
◆提案149項目、国会で審議中の法案に反映
 短距離の航空便廃止や熱効率の悪い住宅の賃貸禁止、環境の大量破壊「エコサイド」の罰則化…。仏国会で審議中の法案は、昨年6月に市民会議から受けた149項目の提案をほぼすべて網羅している。
 
 オンラインによる今年2月末の最終会合で、市民会議委員らは法案への満足度を採点。「2030年までに二酸化炭素(CO2)を1990年比で40%削減する国家目標を達成できるか」と問う項目では10点満点で平均2.5点と、手厳しい評価を下した。
 「提案はフィルターを通さず法案化する」。マクロン大統領の言葉とは裏腹に、提案の規制値や法案の表現が軒並み下方修正されたためだ。委員の建築家ウィリアム・オーカンさん(34)は「この法案で削減目標の達成は不可能だ」と批判。市民会議と歩調を合わせる環境団体による法案への抗議活動も高まっている。
 
◆議論深まり「目が覚めた」、政界に転じる人も
 オーカンさんは市民会議メンバーを引き受けるまで環境問題について「学校で学んだ以上の知識はなかった」と話す。それが、専門家のアドバイスを受けて議論が深まるうちに「地球が置かれた危機的状況を知り目が覚める思いだった」。今は航空機での出張をやめるなど生活様式を見直し、自身の年間CO2排出量を国民平均の半分以下の5トンに減らす努力を続ける。
 
 「鉄道の利用増や地産地消など各地域で可能なことを推進すれば、より積極的な環境対策を政府に迫れる」と考えたオーカンさんは6月の地方議会選への立候補を決断。他にも自治体の首長に就任したり、環境団体に加わったりして市民会議の経験を生かしはじめた委員は多い。
 市民会議開催の意義について、委員らはおおむね高く評価。元パイロットのパスカル・ブルクさん(62)は「政府に直接提案する機会は貴重だ。温暖化対策の緊急性を国民に伝えることができた」と振り返る。
 フランスに続き英国も昨年1月に無作為抽出による気候市民会議を創設した。スペインやドイツも導入を検討するなど世界的な潮流になりつつある。
◆札幌でも試行 「従来の議会より利害の影響受けづらいのが利点」
 日本でも札幌市が昨年11~12月に会議を試行した。無作為抽出された10~70代の男女20人がオンラインで4日間、脱炭素社会の実現を議論。温室効果ガス排出実質ゼロに向けて「住宅の断熱性能の飛躍的向上」「蓄電池の普及」などを求める意見が多数を占めた。結果は、今年3月に市が策定した気候変動対策行動計画に反映された。
 実行委代表の三上直之・北海道大准教授(環境社会学)は「気候変動対策のような長期的取り組みが必要なテーマは選挙でも争点になりづらく議会制民主主義には不得意な分野だ。利害に偏らない人々が熟議をして出した結果は政策にも活用できる」と述べる。
 パリ第8大学のイブ・シントメル教授(政治学)は「産学界の代表でつくる従来の会議よりも市民の多様な声を反映でき、利害関係者の影響を受けづらい利点がある」と説明。「環境問題や選挙制度のように目的がはっきりした施策の実現に活用する国が増えるだろう」と話している。
 
市民会議など、ほかに政治を変える可能性があるにもかかわらず、バスターニの議論の方が多くの人に魅力的に映るかもしれない。エリートと技術専門家に任せた方が楽に思えるからだ。
バスター二の加速主義に惹きつけられる人々がいるのは、先進国にいる私たちがかつてないほど「無力」になっていることの裏返しである。
無力になった私たちは資本主義なしには生きられないと無意識のうちに感じている。そのため、対案を生み出す左派の想像力も貧困になっていく。
人類はかつてないほど自然支配のための技術を獲得し、惑星全体に大きな影響力を及ぼしている。だが、同時に私たちはかつてないほどに、自然の力を前にして無力になっている。
 
このように呑み込まれることを、マルクスの概念では「包摂」という。私たちの生活は資本によって「包摂」され、無力になっている。
 
社会全体が資本に包摂された結果、「構想」と「実行」の統一が解体されてしまった。
本来人間の労働は「構想」と「実行」が統一されているはずである。
もはや現代の労働者は、かつての職人のように、一人で完成品を作ることはできない。テレビやパソコンを組み立てているのは、テレビやパソコンがどうやって作動しているのか知らない人々である。
 
加速主義に即して言えば、どの技術をどうやって使うか構想し、意思決定を持つのは知識を独占する一部の専門家と政治家だけになる。資本はそういう人々を取り込むだけで良い。
 
例えばジオエンジニアリング(気候工学)ー地球システムそのものに介入することで、気候を操作しようとするもの。
 
アンドレ・ゴルツ
ゴルツによれば、専門家に任せるだけの生産力至上主義は、最終的には、民主主義の否定につながり、「政治と近代の否定」になる。
 
生産力至上主義の危険性を避けるために、「開放的技術」と「閉鎖的技術」の区別が重要であるとゴルツは考える。開放的技術とは、「コミュニケーション協業、他者との交流を促進する」。それに対して「閉鎖的技術」とは、人々を分断し、生産物、サービスの供給を独占する技術を指す。(例えば原子力発電)。
 
別の道のために、想像力を取り戻すためには必要なのは「開放的技術」である。人々の自治管理の能力を発展させることだ。
 
 
第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
 
資本主義は絶えず欠乏を生み出すシステムである。(大都市における物件・不動産など。あるいは「土地」や「部屋」の賃貸料が払えずホームレスになるひとびとなど)
 
・マルクスの本源的蓄積論
「本源的蓄積」とは、主にイングランドで行われた「囲い込み(エンクロージャー)」を指す。暴力的な囲い込みによって都市に流入した農民の人々が賃労働者になったとされる。つまり囲い込みが資本主義の離陸を準備した。
土地は根源的な生産手段であり、それは個人が自由に売買できる私的所有物ではなく、社会全体で管理するものであった。だから「入会地」のような共有地はイギリスでは「コモンズ」と呼ばれていた。
 
・「化石資本」
完璧に持続可能で廉価、潤沢な水力から、なぜ有償で希少な石炭への移行が起きたのか。アンドレアス・マルムニよれば、この移行を説明するには「資本」を考慮に入れなければならない。当時の企業が化石燃料を採用するようになったのは、単なるエネルギー資源だけではなく、「化石資本」としてだった。石炭、石油は河川と違い、輸送可能で、何よりも排他的独占が可能なエネルギーであった。
水車から蒸気機関へと移行すれば、工場を河川沿いから都市部に移すことができる。河川においては、労働力が希少なので、労働者が優位に立てる。けれども、仕事を渇望する労働者が大量に居る都市部へ工場を移せば、資本が優位に立てて、問題が解決する。
 
・コモンズの潤沢さ
 
私的所有制ではそれまで無償で利用できていた土地が、利用料(レント=地代)を支払わないと利用できないものになった。
・ローダデールのパラドックス 「私財の増大は、公富の減少によって生じる」
公富とはー 万人にとっての富のこと。ローダデールはそれを「人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなる」と定義する。
私財とはー 人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなるが、一定の希少性を伴って存在するもの」
 
公富と私財の違いは「希少性」の有無である。
 
「公富」は万人にとっての共有財なので、希少性とは無縁である。「私財」の増大は希少性の増大なしには不可能である。ゆえに「公富」を解体し、意図的に希少にすることで私財は増えていく。つまり、希少性が私財を増やす。(「ローダデールのパラドックス」)
希少性を維持するため、ときにタバコの収穫量が多すぎれば燃やしたり、ワインの生産量を減らすために法律でワインの用の葡萄畑を規制したりする。
 
・マルクス資本論における「価値」と「使用価値」
マルクスによれば「富」とは、「使用価値」である。
マルクスは空気や水など、資本主義以前から必要とされる生存のためのもの。それを使用価値というが、資本主義では財産、貨幣になる商品である「価値」が支配的になる。
例えば水は潤沢である。「使用価値」が水にはある。本来は誰のものでもなく、無償であるべきだ。だが、現代ではペットボトルに入った水として商品になった。「商品」としての水は、貨幣で交換が必要な希少品になった。
水に価格をつければ、水そのものを「資本」として取り扱い、投資の対象としての価値を増やそうとする思考へ横滑りしていく。(水に希少性を与えたり、水質の劣化を気にせず、人件費や管理維持費を削減するかもしれない)
希少性を維持・継続していくことで、資本は利潤を上げ続ける。
 
コモンズ(第四章参照)は万人にとっての「使用価値」である。コモンズは人々にとって無償で、潤沢なものだ。ところが何らかの方法で、人工的に希少性を作り出すことができれば、市場は何にでも価格をつけることができるようになる。
 
破壊や浪費といった行為さえも資本にとってはチャンスで、破壊や浪費が潤沢なものをますます希少なものにしていくことで、資本の「価値」増殖は生まれる。気候変動がビジネスチャンスになるのも、そのためだ。
これが「気候変動ショックドクトリン」で、「使用価値」を犠牲にした希少性の増大が私腹を肥やす。
コモンズを失った人々は商品世界に投げ込まれる。そこで直面するのは「貨幣の希少性」である。
 
貨幣の希少性の大きな要素の一つに「負債」がある。例えば、住宅ローン。借金を返すために、人々は資本主義の勤労倫理を内面化していく。勤労倫理に基づく長時間労働は、本来必要でないものの過剰生産につながり、その分環境を破壊していく。
人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。大量の商品ができたら、人々を無限の消費に駆り立てねばならなくなる。⇨消費に駆り立てる「ブランド化」。
この無意味なブランド化や広告にかかるコストはとてつもなく大きい。マーケテング産業は食糧、エネルギーに次いで世界第三位の産業になっている。この悪循環から抜け出すのは、マルクスの「脱成長コミュニズム」だ。
 
・コモンを取り戻すコミュニズム
マルクスによれば、コミュニズムは「否定の否定」である。
一度目の否定は資本によるコミュニズムの解体で、それをさらに否定するコミュニズムは、コモンズを再建し、「ラディカルな潤沢さ」を目指す。
「コモン」とは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理すること。
 
例)電力の市民「営化」、ワーカーズ・コープなど。
 
・電力の市民「営化」
太陽光や風力の無限で無償性の潤沢さ。ここには資本の希少性を作り出すことの困難さが見出せる。ここには、「資本の希少性」と「コモンの潤沢さ」の対立がある。エネルギーが地産地消になっていけば、電気代として支払われるお金は地元に落ちる。
 
・ワーカーズ・コープ
労働者組合員がみんなで出資し、経営し、労働を営む。
協同組合は、労働者たちが連帯することで、生産手段を自分達に取り戻し、「ラディカルな潤沢さ」を再構築すること。
労働者たちが、労働の現場に民主主義を持ち込むことで、競争を抑制し、開発、教育や配置換えについての意思決定を自分たちで行う。ワーカーズコープは世界中に広がり、日本でも介護、保育、林業、農業、清掃などの分野でワーカーズ・コープの活動は40年近く続いている。もちろん、ワーカーズも一歩外に出れば、資本主義市場での競争にさらされてしまう。コストカットや効率化が優先されたり、儲け重視になってしまうこともある。それゆえ、最終的にはシステム全体を変えなくてはならない。
 
・GDPとは異なるラディカルな潤沢さ
脱成長コミュニズムは、清貧の思想とは違う。環境を守るために人々が貧相な生活に耐えよ、というのは資本主義のイデオロギーへの囚われである。私たちは十分に生産していないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから貧しいのだ。これが「価値と使用価値の対立」である。
 このかんの新自由主義の緊縮財政というのは、人工的希少性を増強するという意味で、資本主義にぴったりの政策であった。
 
必要なのは「反緊縮」で、それはただ貨幣をばら撒くことではなく、コモンの復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。
資本主義に終止符を打ち、「ラディカルな潤沢さ」を復活させよう。その先に待っているのが「自由」である。コミュニズムは平等を優先して、自由を犠牲にするとしばしば誤解されてきた。確かに環境負荷が高いライフスタイルを「自由」とみなす米国型資本主義の価値観とは訣別しなければならない。
 
マルクスの掲げる「自由の国」は、物質的要求から自由になるところから始まる。集団的で、文化的な活動の領域にこそ、人間的な自由の本質があるとマルクスは考えていた。
 だから自由の国を拡張するためには、無限の成長を追い求め、人々が際限ない長時間労働と際限ない消費に駆り立てるシステムを解体しなくてはならない。たとえ総量としては、これまでよりも少なくしか生産されなくても、全体として幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての「自己抑制」を、自発的に行うべきなのである。このような自己抑制が「良い」社会だという考え方の重要性は、気候変動危機の時代にますます重要になってくる。
 
・自然科学が教えてくれないこと
現在、人類が分岐点に直面している中、私たち自身がどのような世界に住みたいのか、そのためにはどのような選択をするのが最適かを話し合う必要がある。ところが自然科学は、どのような社会が「自由の国か」は教えてはくれない。要するに自然的「限界」は単にそこに存在するわけではなく、私たちがどのような社会を望むかによって設定されるものである。限界の設定は、経済的、社会的、そして倫理的な決断を伴う政治的選択の産物なのだ。
 
(おそらく)左派加速主義的な技術主義も、不可逆的に自然や地球の在り方を変えてしまう。こうした事態を避けるためには、「余計な介入をしない」ということが非常に大切になる。ここでも「自己抑制」がますます重要になる。
 ところが抑制なき消費に人々を駆り立てる「資本の専制」の元では、そうした自己抑制としての自由を選ぶのは困難になっている。人々が自己抑制をしないことが、資本蓄積と経済成長の条件に織り込まれている。
 
 無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張する。
 

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