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総合芸術として再び花開かせる ~千利休が教えてくれた、日本文化の世界での勝ち筋~

美的概念をアップデートし、日本文化全体を統合する【NEOわびさびをみんなで】

あけましておめでとうございます!昨年お世話になりました皆様大変ありがとうございました。2023年の今年は国内外ともに色々と面白いことを計画しておりまして、今年の抱負も込みで、ここ1.2年考えていることを超久しぶりにnoteに書きました!(※3投稿目ですが、いつもながらめちゃくちゃ長くなってしまったので、興味ある方は是非軽い気持ちでお読みください~)
ではいきます!


過去2回のnoteでは、僕がなぜB-OWNDをローンチし、何を実現しようとしているのかをお伝えする中で、「次のルネサンスを日本から」という想いを伝えてきました。

 https://note.com/kenishigami/n/n29fcadea1697

そしてB-OWNDリリースから約3年半を経た今、プロジェクトは新たなフェーズに入ろうとしています。
 
日本の伝統文化がなぜ衰退してきてしまったのか、なぜ世界でプレゼンスを示せていないのか。
歴史を紐解くことで点と点が線となり、そしてこれから面となって打ち出していく戦略がかなり明確に見えてきました。
 
ー勝ち筋はある。そう僕は見ています。
 
その具体的な方法をここではお話していきたいと思います。



日本の歴史を振り返ると、文化が大きな力を持ち、政治や経済を動かしてきた時代がたしかにありました。時の権力者をも取り込み、文化におけるソフトパワーが世の中を動かしていました
 
さらに歴史を見ていくと、現代アート含め昨今の世界の流行しているカルチャー要素って実はずっと日本の文化が持っていたものだったりします。
 
それなのに今、日本は世界の中で存在感を示せていない。
それは文化の中身ではなく、打ち出し方の問題にあると感じています。
 
僕が提唱したい方法は、大きく3つの要素で構成されています。

  1. WHAT → NEOわびさびを軸にした総合芸術としての統合

  2. WHO → 文化・経済両方の視点をもって、面で戦う(文化経済人コミュニティ)

  3. HOW → 違う質のコミュニケーションへと誘導する(内的&外的の一体化)

実はこれらのことは、今から約500年前、茶の湯が実質政治をも動かしていたと言われる時代にまさに行なわれていたことでした。1つずつ説明していきます。


WHAT →NEOわびさびを軸にした総合芸術としての統合

その1: 日本人固有の美的概念をアップデートする

千利休が生きた戦国時代。美しいとされたものは白く均整の取れた唐の器でした。
一方で利休が美を見出したのは、それとは真逆の真っ黒でボコボコの器。
 
みんなが憧れていた豪華でシンメトリーな器は、ある意味権力の象徴でもありました。利休はその美意識に真っ向から挑戦したんです。従来の美に対するアンチテーゼですよね。
 
「雑器」という一見地味な器を通して利休が伝えたかったもの。それはただの反骨精神ではなく、日本人が古来から大切にしてきたはずの美そのものでもありました。
 
それが「わびさび(詫び・寂び)」です。
 
非常に深い、理解の難しい概念ではありますが、
その本質は「不完全を愛すること」にあると僕は理解しています。
 
すべては変化し続ける中で、
桜は満開よりも散っている様を、
月は満月でなく欠けている様を、
 
そういう不完全で非永続的で流動的なものに美を見出すところは、
それを「わびさび」として概念化するよりずっと前から、日本人の心にあったものです。
 
移ろいゆく時の中で感じる情趣や無常観的な哀愁は、仏教が伝来した6世紀頃や平安の頃からずっと記されてきました。
 
そしてわびさびが生まれ500年経った今でも、それは日本人のDNAにしっかり刻まれています
 
これは僕が勝手におもっていることですが、例えば現代のアイドル文化にしても、韓国とか他の諸国だったら完全性をいきなり表現してみせるわけですよね。でも日本の場合、完璧じゃないんだけど完璧になろうとするその不完全さがかわいいと。またアニメでみられるような幼児性的なロリコン文化もそのような側面があると思います。
 
「かわいい」がそのまま「kawaii」になったのも、cuteなどの他の言葉では表しきれない「わびさび」から通じる不完全性を愛する美的感覚があるからなように思います。
 
利休は、日本人古来の美意識がそういうところにあると分かっていた。
そしてその本質から離れていこうとする世の中の流れに疑問を投げかけ、アップデートすることを試みました。
 
アップデートとは、「意味の見出し方を変える」こと
力が支配していた時代に、力の象徴としての美の在り方に疑問を呈したのです。
 
500年経った今、僕はまさにこれをやりたい。
いわば「NEOわびさび」のような概念を生み出し、さらにそれを軸に日本のあらゆる文化を統合することにより周辺領域をまとめて輸出産業化していきたいと考えています。

その2:総合芸術としての統合

新しい美的概念を打ち出した利休は、それを元にすべてを再定義しました
茶室から空間の作り方、そして生け花や掛け軸や茶器など・・茶の湯のすべての要素ですね。
 
お茶は総合芸術だといわれますが、それを統合しているのはこの美的概念です
わびさびという美的概念においてそれらすべての要素が統合されているから、統一感を持った総合芸術として存在している。
 
実はこれと似たような要素を持ち、世界中に広まっていった文化が意外なところにあります。
 
 
ヒップホップです。
 
hip-hopって、ワケわからない言葉ですよね。
hipしてhopする(=ぴょんぴょん跳ぶ)みたいな。
 
でもその裏には、思いっきりアンチテーゼの概念がある。
 
生まれはニューヨークのブロンクス地区で、ある種白人史上主義の芸術会とか音楽会とかに対してなかなか評価されない貧しい黒人の人たちがいて。経済的にも精神的にも厳しい状況の中で、マイノリティ同士で対立するようなことが頻繁に起こっていた。
 
それに対して、もうこんなことはやめようよと。
どうせだったら暴力ではなくカッコよさや文化で勝負しようよってことで
そこからMCが生まれるわけですよね。
 
それはラッパーになり、そこにビートが入ってDJになり、身体的な人はその場でブレイクダンスをやり始め、絵が得意な人はそこでストリートアートをやり始め、それがストリートファッションにもなり・・・。そう、それらはhip-hopという美的概念により統合されうる総合芸術なんです
 
さらに暴力ではなく美で勝負しようという思想は、戦国時代=暴力の時代に隆盛を誇った茶の湯とも共通しています。
 
茶室に通じる60cmほどの小さな入り口は、どんな身分の人も刀などすべての武器を置き、身をかがめたまま入っていく必要がありました。
 
その先に(物理的には狭いが)広がっていたのは、武士だろうと農民だろうと、誰もが一人の人間として向き合う世界。
 
武力行使の世の中から隔絶された、ソフトパワーによる美の戦いをする空間だったわけです。
 
そこには、暴力と身分至上主義の世の中に対抗するかのような利休の強い思いが込められているのではないか。そういった意味でも、お茶とヒップホップの根底には通じるものがある。
 
残念ながら今ではお茶や工芸の文化を楽しむ人口は急激に減っていますが、一方でヒップホップが世界で大きな存在感を示し続けていることは、僕にとっては希望です。
 
統合されているからこそ、厚みがあって、プレイヤーが多くなるからムーブメントになり、それが人々に定着して一般化していく。それを、お茶などの日本文化も総合芸術として再現できる可能性はまだ十二分にあると見ています。
 
そこで重要なのが、それを誰が担うのかということです。
僕は「文化的経済人」と呼んでいるのですが、ようは文化と経済両方の視点を持った人たちが集合体としてこれを推進していくのがポイントだと考えています。

WHO→文化・経済両方の視点をもって、面で戦う

その1:文化的経済人であるということ

B-OWNDで開催した博多阪急での茶会。茶人の岩本さん/金澤美粋の安久さんと!


過去のnoteでも話しましたが、僕の父親は裸一貫の生粋のアーティストです。母はややアーティスト気質の画商で、兄はがっつりデジタルアーティストで、アート家系の家に生まれたため、僕はアートだけではなく、ビジネスやプロデュース業をやらねばと10代の時に思い立ち今に至ります…

過去のnoteはこちらからどうぞ!

そうして気づいたのは、文化を担う人間とビジネスを担う人間が大きく分かれていることです。

ビジネスや経済をよく分かっている人たちでも、アートや工芸についてはよく分からないという人が多いし、逆に文化に携わる人たちには、ビジネスや経済的視点が抜け落ちていることが多い(というか多すぎる(笑))。

しかし時の千利休は、まさにこの両方の視点を持った人でした。

堺の商人だった利休は、大航海時代以降の欧米列強諸国に比べて「いい器」を買えなくなっている日本の経済状況を肌で感じていました。そこで「いい」の定義自体を改めて問うた=価値転換したわけですよね。

さらにその新しい価値を知らしめていくための方法論もすごかった

1つだけお茶碗を展示し、そこに「なんだあれは」と人が集まってくる仕組みを作った。

もちろん買いたい人が出てくる中、誰にも売らないわけですよ。

そして一定期間が過ぎたら、最初は武将や豪商とか影響力のある1番のトッププレイヤーの人たちに買わせる。次にまた展示した時には、需要量が大きくなり供給量を制限しているから、経済の原理原則でオークション形式みたいな感じで値が釣り上がるんです。

価値が一般化していくためには、憧れさせる必要があることを、そして需要と供給の差分により価格は上がっていくということを、誰よりもよく分かっていたわけです。マーケティングですよね。

利休のように両方に精通するのは難しくても、文化に深く共感した経営者のような人がどんどん文化産業に入っていったら必ずパイは広がるし、一方で文化産業にいるような人たちが少しでも経営的・経済的要素を学べば、 もっとダイナミックなことに挑戦できるはずで。

実はそういった文化的経済人が集まり、点でなく面になって日本のプレゼンスを上げていくようなことを、僕は今年、本格的にやろうと思っています。

 

その2:失敗をどんどん共有していける仕掛け

文化と経済を学べるコミュニティで、失敗したこととかもどんどん共有していけるようにしていきたい。たとえば、自分はアメリカでこの分野で工芸を現代アート化できないかとアプローチをしたけど、でも結局この部分は失敗しちゃった。原因はここなんじゃないかみたいな。

普通のビジネスの場ではやっぱりプライドもあってなかなか難しいですが、ここではそういった失敗の共有が自然と促される理由があります。

ひとつは、世界に対して日本文化を表明してプレゼンスを上げていく同志だということ。NEOわびさびという概念を中心に一緒に「ここを目指そうよ」と進んでいく仲間であり、競う相手ではないからです。

最近よく同業者の色々な方から、良い悪い含めて僕がやっていることやプロデュースしている作家についてあれこれとご意見を頂くのですが、そもそも全体の市場規模が縮小している状態のときに身内の批判や足の引っ張り合いをするのではなくて、一緒に国内外含めてパイ全体を大きくすることを僕はやりたい!

もうひとつは、ここはそもそも不完全性の美をベースにしたコミュニティだということ。失敗や経過を含めてその旅路そのものが美しいと、その価値を認めた仲間が集まっているからです。

そして3つ目は、全く新しい質のコミュニケーションへ誘導できる仕掛けが介在するからです。

何に対して新しいのか?ー従来のビジネスに対してです。

それが、最後のHOWの部分につながります。

 

HOW→違う質のコミュニケーションへと誘導する

お茶=より良く生きるために日常に取り入れられるすべて

たとえば普段行う会議室での商談ー。

それが茶室で行われたら、どうでしょうか。

「堅苦しそう」「商談内容に集中できなさそう」などと、あまりポジティブに捉えられる人は少ないかもしれません。茶道を嗜む人口は近年急激に減ってしまいましたが、その理由はルール化にあると僕は考えています。

畳何目に手をついて挨拶とか、お茶碗を何回回転させるとか、お辞儀だけでも何種類もあるー。それらは大事な要素もあるかもしれないけど、本質ではない。

僕は、お茶の本質とは「良いコミュニケーション、より良く生きるための、日常の中に取り入れられる全て」だと考えています。


茶室=最強のコミュニケーション空間である理由

そこで行なわれるコミュニケーションは、他の場とはまったく違った質のものに昇華することができる。本当にすごい空間なんです。

ひとつは、最強の仲介役=茶人による最高のもてなしの場だということ。

お茶会には必ず亭主と茶人、そして招待された客という関係性があります。そして亭主が客人に施したいもてなしをファシリテーターともいえる茶人が可視化する。それが人と人を繋いでいく装置になっているんです。

その相手(客人)が茶室に入る瞬間から、すべてはその人のためにしつらえられた世界が広がる。そのおもてなしの深さに感動せずにはいられない中、ゆっくりとお茶を出して、1回落ち着かせる。

そこにはある種身体的にも交渉がうまくいくような、話し合いが建設的にいくような仕掛けがいくつもあるんですよね。それこそが、お茶が戦国時代から明治にかけて、豪商武将など時代を変えたような人たちを取り込めた理由だったと考えています。

もうひとつのポイントは、内的なものも含んだコミュニケーションの空間だということ。

お茶は内省のベクトル=新しく自分を知ることと外に向かうコミュニケーションとが一体化している。禅と密接に関わる精神世界であると同時に、人と人を密接に繋いでいく装置でもある。そこがすごいところだなと思っています。

ビジネスに使われるという点でいえばゴルフが近いかもしれませんが、それよりもっと・・余白もある中で考えることを促されるような、ギリシャ哲学のアカデミアに近いコミュニケーションのスタイルだと僕は思っています。

またそのコミュニケーションのあり方は、これからの時代に一番求められる質のものだということもポイントです。

若い世代が最近すごくハマっているものを考えてみると、サウナとかシーシャとかマインドフルネスとかー。ある種強制的に速度を落とす装置として身体的に機能させられるものが多いことに気づきます。日常の中に余白を取り戻すというか、ふっと視点を変えて心の余裕を作れるような装置です。

高度経済成長の時代を象徴するのが盛り上がる系の飲み会だとすると、これからを担う世代がこのような交換神経と副交換神経を入れ替えてリラックスさせるようなものにハマっていることは、何か象徴的なように思えます。

すべてが加速的で競争主義だった社会に対して、「なんで競争すんの?」って。みんなで協力して、繋がって、みんなで良くなれば良くない?って。僕らやその下の世代って、理想とかうんぬんではなくそう本気で考えている人たちばかりなんです。

お茶は利害関係をいったんフラットにしてコミュニケーションさせることができるという性質からも、そういうこれからの世の中に合致したスタイルだといえます。

身分制度や刀の所持がなくなった現代でも、茶室の中では皆フラットであるという原則は生きています。お茶の席では会社・役職などの肩書ではなく、「どこどこ生まれのこんなことが好きな石上です」というのが自己紹介のやり方です。自分の好きなこととか、目の前に運ばれてきた料理とか、そういうところから話を作っていくんです。

そういったコミュニケーションを、たくさんの文化的経済人がごちゃ混ぜになってやったらどんなものが生まれてくるんだろうって。そこで建設的な議論がされて、言葉としても生まれることを続けていったら、NEOわびさびのような新しい概念みたいなものが生まれてくるかもしれない。

文化みたいなものの本質には「統合する」という作用があって。アートやスポーツ、音楽などもそうですが、国境などいろんな垣根を超えてあらゆるものを繋げられる力がある。さらにそれを持続可能なものにするために、経済的な要素を両立させていく。この考えにピンとくる人たちと集まって、うねりとなるムーブメントを起こしていきたいと考えています。

それを実現するための第一歩となるイベントを、B-OWNDで昨年11月に博多で開催しました!

「工芸3.0 -アート×テクノロジー×日本文化- produced by B-OWND」@博多阪急 2022年11月16日(水)~22日(火)


博多阪急1階の正面玄関に茶室を設置して、様々な工芸アーティストの作品200点を展示しただけでなく、(株)TeaRoomとコラボしお茶会を開催しました!全国から多くの文化的経済人と呼ぶべきお客様にお越し頂き、工芸の展示会にも関わらず6日間で数千万円が売れるという嬉しい結果につながりました。

その他にも、前述の文化的経済人コミュニティの立ち上げや、お茶室を中心にした集えるリアルな場・空間の設計、アメリカ市場への本格的な参入など、すでにさまざまなことが具体的に動き出しています。

前述のようにお茶が衰退してしまった一因であるルールをアップデートすべく、茶室にLED付けたりクラブ的な感じにしちゃったり、掛け軸がデジタルだったり、もう変なことや自由なことばかり考えています(笑)。だから今までお茶にあまり触れたことのない人もぜひ一緒にお茶やりませんか。

ちなみにわびさびは「可愛い」に繋がっていると言いましたが、もうひとつの代表的日本文化・歌舞伎は「かっこいい」に繋がっていると思うんです。

歌舞伎の「傾く」っていうのは「変人」ってことなんです。 世の中的には「もう狂っている」っていう。狂った格好で踊っているわけじゃないですか。でもそうやって旧態依然のものを打ち破る勇気が、いつの時代も「かっこいい」を作ってきたんです。

だから僕は、可愛いとかっこいいを同居させたい。不完全性の中に美を見出だすっていうことと、旧態依然としたものに対してのアンチテーゼを突きつけるっていうことを両立させ、統合して、みんなで一緒に日本のソフトパワーを世界に打ち出していきたいと思っています。

以上めちゃくちゃ長くなりましたが、僕の2023年の抱負を書き記しておきますー!!

 

※また上記からわかる通り、昨年からがっつり茶の湯にはまっている石上ですが、その影響や考え方に大きなヒントをもらった同世代の友人であり様々な事業を今一緒に進めているTeaRoomのCEO/茶人の岩本涼さんには特に感謝感謝です!いつもありがとうございます!
岩本さんの記事も載せておきますので、よろしければどうぞ!


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