
[追悼]「空飛ぶ車イス」木島英登さん
今から20年前に知り合い、長らく親交のあった『空飛ぶ車イス』などの著作で知られる「きーじー」こと木島英登さんが、今年7月11日にくも膜下出血で亡くなりました。49歳でした。今年のゴールデンウイークに山口県下関市でお会いした際に元気な姿を見ていただけに、突然の訃報には言葉もありません。海外からも悲しみの声が聞かれ、旅行や講演などを通じて外国の方々にも慕われていたことを改めて知ることとなりました。
ご逝去から2か月が過ぎた今、これまでの木島さんとの交友について少し書き記すことにしました。
初めて木島さんと出会ったのは、私が米国カリフォルニア州シリコンバレーに大手電気機器メーカーの駐在員として赴任していた2002年でした。木島さんは当時勤めていた電通を1年間ほど休職し、UCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)の研修生として留学中でした。双方の知人であったアップルの日本人社員の方が、クパチーノの中華料理店で現地の日本人を集めて夕食会を開催したとき、たまたま隣の席だったのです。
出身地や経歴など、まったくと言っていいほど共通点はありませんでしたが、互いに「旅行好き」という点で話が盛り上がりました。当時、私も木島さんも約40か国を旅していました。それだけの国を訪れていた人は私の周囲にはおらず、彼にとっても同様のようでした。結局、木島さんが175カ国を訪問した一方、私は2020年1月にちょうど80カ国を達成したところでしたから、倍以上の差が開いてしまったことになります。車椅子でこれほど多くの国を訪問した人は、おそらく彼だけではないでしょうか?(もしかすると、乙武洋匡氏が将来これを上回るかもしれませんが。)
米国在住時は、サンフランシスコで開催されたイラク戦争反対デモに一緒に参加したり、ワイオミング州のイエローストーン国立公園を一緒に訪れたりしました。彼との出会いは、「大きな段差ひとつ」で身動きが取れなくなる車椅子ユーザーの不便さを身近で体感できる貴重な機会となりました。また、南米のパラグアイに私が単独で旅行した際には、現地の日本人一家を木島さんから紹介してもらい、そこに泊めていただくなど、旅行においても様々な有益な情報をいただきました。
日本帰国後も、1年に1回程度会って互いの近況を伝え合う関係が続いていました。そんな中、2017年6月、鹿児島県の奄美空港で、木島さんは格安航空会社のバニラエア(現在はピーチ・アビエーションに吸収)から車椅子での搭乗を拒否され、自分の腕の力を使ってタラップをよじ登って搭乗したことが報道されました。
じつは、米国在住時に木島さんがアパート3階にあった私の自宅に遊びに来た際、エレベーターがなかったことから、腕の力で階段をよじ登っていました。私にとっては「いかにも彼がやりそうなこと」ではあったのですが、航空会社に事前に連絡をしなかったことなどが批判を受けました。その中には一線を越えて、虚偽の情報の拡散、極端な人格否定、電話やメールによる執拗な嫌がらせもありました。ネットの恐ろしさを身をもって感じました。
木島さんの言動のすべてを擁護するつもりはありませんが、声を上げることは重要です。誰かの上げた声が皆の気づきに繋がっていきます。バリアフリーに関して彼の残した功績は大きかったと思います。今年4月からは下関の私立大学で教員の仕事を新しく始めたばかりで、ゴールデンウイークにお会いした際、授業計画について熱く語っていたことが昨日のことのように思い出されます。教育者としての活躍も期待していただけに、本当に残念でなりません。
誰にとっても、自分や身近な人が障害者になったり、またそうでなくとも、何らかの困った状態に置かれることはあるでしょう。相手の立場を理解し、互いに暖かい心で助け合える社会になることを心から願っています。