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情報が完全に統制される状態は、認識可能なのか

web世界の情報統制が、激しくなってきている。

誰かにとっての不都合な情報は、事実であってもどんどん消えていく。

以前見ていた記事が、消されてしまった。

Xやユーチューブの投稿が、バンされてしまった。

ちょっとしたコメントをした瞬間に、警告と共にアカウント削除の通知。

ネットメディアの中の無法地帯状態が取り締まられているということにかこつけて、色々なものがなかったことにされている。

人によってはそのことに怒りを覚えるかもしれない。

何でこんな有益な情報が消されてしまうのか。

正当なことなはずなのに、事実であるのに、注目される前に消されている。

これは何かの陰謀に違いないという考えをする人もいる。

とはいえ、そもそも有益な情報と思っていることがこれだけの数消えているというのは、今に始まったことなのか。




情報統制というものは、じつはごく当たり前のもの。

以前までは情報伝達プラットフォームが少なかったために、ただ知られていなかっただけ。

情報の民主化という名のもと、一般人が少し深いことに対して簡単にアクセスできるようになったのは、つい最近のこと。

それまでは、有益とされる情報は一般の人に出回ることもなく、特に問題なく秘密は秘密のままうまく保持されるであった。

そもそも多くの人がそのようなことに関心を持つことなく、認識をもたなかった。

身の回りのことで十分満ち足りていて、そもそも必要としなかったもかもしれない。

しかしながら、現代のように情報が出てくるような時代になると、隠されているようなことがあるように感じてしまう。

意図的に断定を避けて、何か隠しているように感じてしまう節もある。

その結果、何々に触れなかったから、情報が隠された、それは陰謀だという話になってくる。

ただ、それはあくまでも情報に触れられるようになったからこそ認識できること。

そうでなければ、そのことすら気が付かない。

つまり、過去のようなメディアやプラットフォームがない時代というものは、情報がそれ相応にしっかりと統制されていた時代といっても全く差し支えない状態。

情報が完全に統制されていることは、おそらく認識出来なかったのであろう。




本当の意味での情報統制、それが達成できる状態とはどのような状態か。

それは、webのプラットフォームが機能しなくなった時なのか。

近所や知り合いの誰ともつながることが出来なくなり、完全に情報的に孤立することなのか。

気が付いたら何もかも情報が入ってこなくなることなのか。

個人的には、現代における情報統制とは、意味をなさない情報だけがひたすら溢れることこそが、情報の統制の最たるものであるように感じる。

数多くのどうでもいいような、自分と関係ないようなジャンクなガラクタ情報。

それが世の中の情報のほとんどで占められていることこそが、情報統制の究極の状態。

さらにAIによって、動画や文章・画像含めて簡単にフェイクが作り出せるようになった今だからこそ、情報統制はある意味やりやすい。

それらがSNSによるエコーチェンバー効果で何倍にも増幅されて、本物とされるものをどこかに追いやってしまう。

そのような情報洪水の中で、本物を見つけることはどんどん難しくなる。

それはアマゾンジャングルの中にある、1本の小さな木を見つけること。

それは砂浜に広がる中で、本当に大切な1粒の大当たりの砂を探すこと。

それは太平洋のど真ん中でコンタクトレンズを落として、それを探して見つけること。

これは確かに難しい。

ただ、そもそもそのような状態に置かれることがあったとしても、情報統制を気が付くことはできるのだろうか。

雑多な情報が事実だと思い込んでいるうちは、そもそもフェイクが本物だと思い込んでいるわけであって、情報統制を感じない。

むしろ、様々な情報が溢れていて、情報の自由化が進んでいるように感じてしまうかもしれない。

様々な情報があるものの、ほぼすべてがフェイクもしくはどうでもいい情報であるという、その事実を認識することが出来ない。

この究極の状態こそが、真の情報統制の完成であるように感じる。

情報が増えれば増えるほど、ある意味それは情報統制に近づくということ。

果たしてこの状態に対して、ストップをかけることは可能なのだろうか。

そもそも、そのことすら認識出来ないまま、時代は過ぎ去るのかもしれない。




ありがとうございました。

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