「決めないリスク」を消す:ある程度の情報を得たら、見切り発車するのも悪くない
物事の詳細に、とことんこだわること。
細部まで、情報を集めること。
判断・決定するために、トコトン根拠となるものを収集していくこと。
多くの場面で「判断する」にあたっては、出来るだけ数多くの情報を求めることが求められる。
様々な角度から物事を捉えることで、多角的な視野が手に入る。
それによって判断が本当に良いのか悪いのか、効果性があるのかないのか、かなり重要なところまで判断できるようになる。
しかしながら、完璧を求めるあたって、さらなる情報をいつまでも求めつづけることがある。
その判断を行うには、さらなる検討が必要だ。
慎重に慎重を重ねて、実行は検討段階とするべき。
この程度の情報ですぐに判断することは、非常に問題がある。
その結果として、物事がなかなか進まないことも多くある事。
それによって対応が遅れて、取り返しがつかないこともあるに違いない。
判断しないことによる被害、それは実は注目されていないだけでかなり多く存在する。
そして決めないことによるネガティブな面が極まってきた世の中、それが社会のあちこちで表出して目立ち始めている。
慎重な判断、それを行うことで犠牲になるのは時間。
時間というコストを払ってまで、さらに詳細を求める必要があるのかどうか。
判断が遅れて、結果として大きな機会損失となることもよくあること。
慎重に物事を進めることは、常に成功へつながるとは限らない。
それにもかかわらず、熟慮して熟慮を重ねて、判断を先送りにすることが数多くあるような気がする。
一瞬のチャンスについては、情報を集めて判断しない限りは、絶対につかむことはない。
どれほどの機会をふいにしているのか、その数は計り知れないような気がする。
現在の世の中は、PDCAではない状態であることが多い分野も生まれてきた。
Pを行う前にDCがどこまでも繰り返されて、精度を徐々に高めていく。
DCがある程度の試行回数が極まって、Aとなることが多い。
試行回数こそが先に進むという面で重要であるという状態。
それにもかかわらず、常に決められない熟慮が続くのが是とされている。
それによるネガティブが極まってきている気がする。
ある程度情報を集めたら、見切り発車することも必要という考えも必要。
もちろん分野によって使い分ける場面もあるかもしれないが、決めないことによる損害が何なのかということを今一度見直すのもいいかもしれない。
もちろん、決めるということには責任も伴うことが多い。
そして責任を取るという覚悟を持って決めるのと同様、責任を取るという覚悟を持って先送りを決めるという心も必要である気がする。
そうしない限りは、永遠に決められないが続くに違いない。
ありがとうございました。