解釈の強制&矯正は「罪」となるのか
一つの物事には、たくさんの解釈が存在する。
一人一人その解釈は異なっていて、完全に一致することはほぼない。
だからこそ、自由な発想も広がり、様々な面白さが広がる。
一人一宇宙というのは、ある意味とても当たり前のこと。
その中には時に事実と異なることも混同されるし、本当にそうなのと思うことも含まれる。
何が真実なのかということは、立場や人の状態で全く異なる。
だからこそ、決めつけた真実を強制することはとても傲慢。
客観的に正しいといったところで、それすらもあくまで解釈の一つに過ぎない。
何を現実として生きるのか、何を真実と解釈して生きるのか。
その部分に対して無理やり強制&矯正することは、かなり大きな問題であるように感じる。
そして思考や思想が強制されることほど悲しいことはないように感じる。
そのような出来事が世界各地で当たり前のように行われている。
解釈方法を強制すること、それが無意識のうちに行われていたのならどうなのか。
そもそもその情報しか与えないようにすること、それによって勝手に解釈方法が縛られてくる。
その場合は、強制とは言いにくいかもしれない。
とはいえ、実際のところは強制といってもいいのかもしれない。
心に負担は生じないかもしれないが、もしその人がその影響により意識不可能な不利益を被ることとなったらどうするのか。
解釈が半自動的に強制&矯正される状態が当たり前で在る社会。
それは果たして健全と言えるのだろうか。
それは罪と言えることはあるのだろうか。
思想同士の争い、その一つが解釈の強要。
フェイク・嘘であっても力強い側の意見がどんどん広がり、正しい解釈である側は全く情報が広がらない。
誰かのウソも100000回繰り返せば、証拠が出なければ本物になる。
事実に対してとても傲慢な態度を取る人が増えている。
不都合な事実そのものを誹謗中傷と解釈することは、果たしていいものなのか。
ひねくれた世の中と、事実に対する態度の違い。
そろそろ強制&強制によって溜まってきた様々なものが一気に噴出してきてもおかしくないような気がしている。
ありがとうございました。