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働く、を再定義する。

僕は、あと3日で41才になる(2019年11月13日時点)。働くってどんなことだっけ?給料をもらうってどんな意味があったっけ?ってところを見直してみる。

初めての”給料”

お小遣いじゃなくて初めて「給料」を得たのは確か17才、地元にある駅直結のラーメン屋さんだった。高校の授業が早く終わる日の15時から22時だったかな。週2回くらいからスタートした。当然、ここでは「時給=店舗にて稼働した時間に対しての対価としての給与」をもらったのを覚えてる。記憶の限り、初給料は振込口座が間に合わなくて手渡しでもらったんじゃなかったかな。でも、初めての給料を「何に使ったか」は全然覚えていない。。。。

このバイトは、半年くらいしか続かなかった。高3の春になって、受験のために予備校に通いだすとバイトする時間が確保できなかったからだったと記憶してる。当時、この店舗には「高校生」はほとんどいなくて働いている人たちは主婦のパートさんと大学生+就職浪人生(大学を出てそのままフルタイムでラーメン屋さん)っていう組み合わせだったんだけど、高校生の僕には「超刺激的」な先輩方だったのを覚えてる。スノボ行ったり、夜遊びしたり。高校生が稼げるバイト代なんてたかが知れてるから、”お金を稼ぐ”目的よりも、”彼らと遊びたい、背伸びしたい”っていうのがホンネだったんじゃないかな。だから、シフトはできるだけ楽な時間に入る、忙しい時間帯は避ける、わざと休憩する、みたいな今考えたら「ダサい」働き方を結構安直にしてたなぁ・・・って思うんだ。こういう性格だから、もちろん「新しい取り組み」とか「面白いこと」って色々考えたよ。でもそれをみんなに伝えようとか、誰かのために使おうなんてこれっぽっちも考えてなかった。

大学生の働き方

僕は、運良く大学受験をうまくくぐり抜けられた(センター試験がはじまる前に私立の薬学部に奇跡合格:薬学部なのに"化学”と”現代文!”を選択)ので、高3の冬休みになると田舎あるあるの「免許を取り行くべ!!」で教習所に通い、空いた時間をバイトでもしよっかということでセブンイレブンでバイトした。とはいえ、大学は実家から100km近く離れた場所なので当然卒業後も続けられるわけなく、セブンイレブンのバイトは3ヶ月くらいで「ごめんなさい!辞めます!」っていう形でいきなり居なくなるとんでもない奴をやりました。もう20年以上も前なんだね。セブンイレブンは、ラーメン屋と違って「ルールが合理的だなぁ」とか「たくさんの人が上手に働いているなぁ」っていうのを感じたのを覚えてる。ここでも、もらった給料を何に使ったのかって全然覚えてない。

大学生になると、(下宿生活をしていたので)めちゃくちゃビンボーになってこれも田舎大学あるあるだけど”家庭教師”をすることに。いくつかバイトの選択肢があったんだけどこれを選んだ理由は①時給がいい、これに尽きる。確か2,500円だったかな。コンビニの4倍かよ!ってびっくりしたのを覚えてる。あと、②家から遠いところに行くから車くれ、って両親に(正確にはじーちゃんの乗っていたカローラをパクって持っていったw)訴えたかった。この2つ。家庭教師をやってよかったことっていっぱいあるんだけど、例えば

(1)マンガが読み放題:だいたいどこの家にもコミックがたくさんあって、教え子に解かせている間にマンガを読みつくせる
(2)ご飯がついてくる:ビンボー大学生にはとてもありがたい
(3)人に教えると、自分も身につく:お恥ずかしい話、数学の「切片」ってあるでしょ?あれ僕家庭教師やるまで理解できてなかったw(そりゃ、高校数学落第ギリギリになるわなwww、蛇足ですが予備校の数学の模試で「偏差値26」というのをとったことがあります。「62」ちゃいますよ、「26」です(武勇伝)

っていうのがあって、あたらめてやってよかったなぁ・・・って思うんだよね。そう、人に物事を”教える”っていうのめっちゃ大事、ほんま。

家庭教師のバイトで、よく覚えてることがある。うちの大学って、学内の試験がだいたい中学校の中間試験・期末試験の時期と被るのね。そうすると、薬学部って(うちだけじゃないと思うけど)学内試験結構厳しくて、結構留年とかするのでみんな学業>バイトって優先順位になってバイト減らすのね(当たり前ではある)。

本来親御さんからすると「集中して投資して子供の試験の点数をあげたい時期」に家庭教師が来ない、ってジレンマが発生する。僕は、「それ稼ぎ時やん!(授業ないし、実習ないし)」ということで、友人の家庭教師先のスポットも引き受けて、自分のテスト期間中でも週4-5くらいのペースでバイトしてた。

「相手に(特に)ありがたがれるタイミングを見計らう」

そんな大学バイト生活だった。当然、国試直前までこれは続く。(周りの人々のおかげで、なんとか卒業・国家試験合格できました)

さて、そんな感じで学生時代は「時給=稼働時間」で働いてきた。もちろん、その働き方しか知らなかったし、他に選択肢がたくさんあったわけではない。そんな経験しかなかったけど、就職氷河期のなか無事に?外資系製薬会社への就職も決まって僕の社会人生活がスタートした。

社会人ってなんだろう

2001年4月。大阪のスカイビルに本社(当時)を持つイギリス/スウェーデン系の製薬会社に入社をした。入社式を終えると最初の1週間は琵琶湖畔のホテルに缶詰で研修(蛇足ですが先日ビワイチをした時に発見、「ここか!」と感動する)、そのあと3ヶ月間の導入研修を終えて札幌支店に配属に。初めて踏んだ札幌の地は、「7月なのになんでこんなに寒いんだ!!」と20年近く経った今でも忘れない。

製薬会社に入ると、当然「時給」ではなく「月給」の正社員になる。製薬会社の営業、MR(エムアール、医薬情報担当者の略称)って結構自由な働き方で基本直行直帰、僕の場合は所属地と担当エリアが200kmくらい離れていたので「フル出張」っていう形で、月曜朝に札幌支店に顔を出す、清算や書類を出して資材を持ってそのまま車で室蘭までレッツゴー、っていうスタイルで、金曜まで出張してキリのいいところで帰ってくる、この際もつどつど支店に顔出さなくていいよ、っていう超自由な働き方。さらに、営業成績は「賞与」にダイレクトに反映されるっていう仕組みで、

自由な(裁量ある)働き方
成果でプロセスを評価する

って今僕が大切にしている2つのコンセプトって、この時期に醸成されたといっても過言ではないと思う。

自由な(裁量ある)働き方は、僕みたいに

”とにかく人と違うことがやりたい”

人間にとってみるとまさに最高の働き方で、(今だから言えるけど)製薬会社MRっていうのは基本自社の医薬品のいいところを伝えて先生に処方をしてもらい売り上げをあげる、そのためには「対象患者を多く持っている先生のところに頻回にアクセスして自社シェアを高める」っていうのが基本的な行動スタンスなんだけど、僕は真逆。

「自社品を愛してくれる(優先的に処方してくれる)先生のところに、対象となる患者を集中させる」っていうのに時間を割いてた。

例えば、今みたいにiPadなんてないから、クリニックの外で患者が出入りする時間帯を「正」の字を書いて記録したり、

入った患者さんが出てくるまでの時間を測定したり、

院内の掲示板やポスターの「何が目に留まって印象に残っているか」を聞いたり、

処方箋を持って出てきた患者が門前薬局に行く割合を導き出したり、

AEONの駐車場で「どの医療機関にかかったことがありますか?」アンケートやったり、

まぁとにかく時間だけは自由にあったので、インターネットがまだ主流じゃない頃の「アナログ」なマーケティングを徹底的にやってました。その上で、院長先生に「あとレセプト○○枚月間増えたら看護師さん増やします?xxみたいな医療機器導入してもペイできますよね、スタッフの配置どうされます?」なんて話をさせていただいていたので、そりゃパンフレットなんて必要ないし、先生方も忙しい中会うための時間をわざわざ作ってくれるわけです。当時の製薬会社の戦略は、ライバルのA社が月平均3回ターゲット医師に面談している。だからお前らは4回会え!っていう戦略をとることが多かった(これしかKPIがなかったともいう)けど、これも逆張り。そう、自由な働き方、裁量があるっていうことは、こういう「逆張りする(人と違うことをする)チャンス」を得られるってことなんだと思ってる。経営サイドから見たら、働き方から自由度を奪う、裁量を狭くする、っていうことはメンバーによるこういう機会(Try&Error)を自ら放棄する、っていう機会損失の方が大きいんだよね、きっと。

もうひとつ。僕は2005年に今度はスイス系の製薬会社に転職をする。転職をした理由はいくつかあるんだけど、最初の会社が嫌になったわけじゃない。3年ちょっと積んだ経験を基に、「飛躍してみたい」って思ったのがきっかけ。この、最初の会社で担当していた領域の薬は、もちろんそれ単独もすばらしいモノなんだけど、競合にも似たような成分の薬があって究極の話「自社品がなかったら世の中が困る」っていうタイプの薬じゃなかった。代替可能っていうか、なんでもいいっていうか。そういう意味では「診断」部分は医師が行なって、医師の「選択肢」の中で優先順位(相対シェア)を上げていくって仕事なんで、究極の話、患者さんは喜ばない。他社の薬でもそんなにアウトカムほとんど変わらないからね。で、そういう世界じゃなくて、「これ」っていう薬しかない世界で戦ってみたかった。なんていうか、自分の働きでちょっとでも世界が変わるな、的な。

で、選んだ世界が「臓器移植」の領域。(正確には入社のきっかけは骨髄移植が希望だったりもしたけど、まぁまるっと考えたら同じような世界、ということで)この領域で、「一人でも多くの患者さんが、”移植医療にたどり着けるようにする”」っていうのが僕が僕に課したMissionで、製薬会社におけるキャリアの後半の6年間は、ほぼこれだけにリソースを費やしてきた、って言っても過言じゃない。

この世界の中で、医師には限られたリソースを患者さんに向けて使ってもらいたい、って強く感じたのね。だから、最初の会社の時に身につけた、「患者さんを集めてくる」っていうスキルを、自分の尊敬する先生方のために徹底的に使おう、と思ったわけ。実際、移植医療って側からみててもとっても「面白い・興味深い医療」だったんだ。

移植医療って何が面白いかって、「患者さんの生活が劇的に変わる」、これに尽きるんだ。一般的な医療っていうのは、人間誰しもに訪れる「死」へのカウンドダウンを先延ばしにする、右肩下がりの傾きを「何かと引き換えにちょっと緩める」っていうサービスって定義できる。(ちょっと語弊あり、概念化のためにすみません)

でも、移植医療はちょっと違って、(ドナーに出会えれば)この、「右肩下がりの傾き」を「思いっきり緩める」または「数学でいうプラスのy-切片を作る」ことができる医療なんだ。

例えば、昨日までベッドの上でしか生活できなかった、人工心臓をつけないといけなかった6歳の子が移植を終えてキャンプ場を走り回っている。
例えば、透析のため妊娠出産を諦めた女性が、腎移植を受けることで待望の第一子を授かる、親子3人で喜びを分かち合っている

僕は実際に処置をしたわけでもない。服薬指導をしたわけでもない。手術を受けるタイミングでベッドサイドに寄り添えたわけじゃない。でも、仕事を通じてこういう人々からの

「移植があって本当に良かった」

っていう声をいっぱい聞いてきた。(本来、直接聞ける立場になかったけど、先生方やコーディネーターさんたちのお力添えで、そういう”ありがとう”の場になんども立ち会わせて頂けた)

僕は都合12年間、製薬会社でキャリアを積んだわけだけど、(結果論かもしれないけど)「自由な働き方・裁量のある働き方」っていう世界の中で生きてこれたこと、それに伴ってTry&Errorを繰り返せる土壌があったこと、それを許してもらえる上司や同僚、良しと感じてくれる先生方に出会えたことでこうやって「やりたいこと」を実現してこれた。たった一度でも、「何時間働いたから(拘束されたから)xxxxx円」っていうマインドになっていたら、こんなTry&Errorなんてやってないだろうし、「少ない手数や条件のいい職場で稼ごう」ってオポチュニティ・シーカーに心が捕らえられていたと思う。自分にとっての報酬って、「何時間」っていう量で測るものじゃなくて「何」っていう成果や形で測るものなんだろうなって強く思うんだ。

Wrap Up

17才のころからの自分の「仕事観」をもうすぐ41才の自分が見つめ直してみた。いま、ネクイノって会社ではこういう「仕事観」をできるだけ反映した組織・会社を創りたいなって思いながら日々知見を持った専門家集団に相談している。「働く」っていうことに関して言えば、僕が大切な仲間に伝えたいことは

”自分の可能性を(自分で)制限するな”

もうこれだけです。様々なスキルや経験持った人々が集まって、チームとか、組織とか、会社とかって構成されていく。その時に、自分のここまでの経験とか置かれた環境を理由にして自分の可能性を制限して欲しくないんだ。みんなが同じ目標を見つめられて、自分の領域で、時には自分の領域を飛び越えながらTry&Errorを繰り返すこと、「これがやりたい!」って言い続けられる組織、それを全力で応援できるチームを作ること。

結局、僕の信じる「働くを再定義する」って、働く本人のマインドを再定義すること、Tryしていく誰かを応援していけるチームを再定義することなんだなって書いていて纏まった!。最後まで読んでくれてありがとう。

2019年11月13日 石井健一@新大阪→東京までの新幹線車中

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