地獄の構成要件-地獄パーソンと思想家を分けるものは何か。
この有料マガジンで一番好評を頂いているシリーズは、”インターネットにいる「ほんとうの地獄」を紹介していく”というシリーズだ。今まで3本ほど記事を書いた。
書いた翌週にnote様から「先週もっとも多く読まれた記事です!」と通知があり、「いやこれ人の悪口なんですけどいいんですか」という気持ちになったのもよく憶えている。
そういうワケで、僕はインターネット地獄ウォッチをすることで結構な金額の利益を得ており、もはやプロの地獄ウォッチャーを名乗ってもいい雰囲気が出てきている。
そのため、最近は積極的にインターネットにおける地獄を観察している。有料マガジンのネタにするためにクソみたいなオンラインサロンに入りながら毎日の投稿を追ったりしている。僕の人生どうしてこうなった。
そんな「地獄を探す毎日」の中、この人のことが気になってきた。
(スクショ引用元:https://twitter.com/mnetaro )
「寝太郎」という名前でTwitterにいる方だ。この方、僕は3年ほど前から知っている。
当時は「山奥に小屋を建てて一人で生活しているブロガー」だったはずである。面白いな~と思って何本か記事を読んだことがある。
確か大変な高学歴で、骨太な思想の下で小屋暮らしを選択した、いわば「現代の厭世思想家」みたいな人だったはずだ。
「俗世から離れ、山奥で畑をやりながら暮らし、本を読んで哲学する」みたいなライフスタイルを選んだ人だったはずだ。
ところが、最近の彼のTwitterは様子がおかしいのだ。
ずっとウーバーイーツをやっているのである。
しかもあんまり楽しそうじゃない。「冷たい雨の中25分も佇んでいた」とか言ってる。ウーバーイーツの紹介料も高い内にもぎ取ろうとしている。
以前の記事を読んでくれた方は、この様子を見て思い出すことがあるだろう。
そう、「インターネットにいる「ほんとうの地獄」を紹介していく(2)」で取り扱ったしょうもない地獄の人も、最終的にウーバーイーツを始めていた。(紹介料ももぎ取ろうとしていた)
この地獄の流れはこうだった。
・西野亮廣・前田裕二・箕輪厚介といったその時ホットな人に媚びまくる
・自分には何の思想もないのに、媚びたことだけを実績にして「オンラインサロンはじめました!」と言い出す
・サロンは必然、大失敗する
・お金がなくなり、20円の素パスタ(具のないパスタ)を食べながらウーバーイーツで日銭を稼いで暮らす。
彼もウーバーイーツを始めていたし、寝太郎さんもウーバーイーツを始めている。
すごい。もしかしたら一つの新説が誕生するかもしれない。「インターネットにいる地獄がたどり着く先はウーバーイーツ」みたいな説を唱えることができるかもしれない。
しかも、寝太郎さんもパスタについてツイートしていた。
すごい。あまりにも類似点が多すぎる。もしかしたら「インターネットにいる地獄が最終的にたどり着くのは素パスタを食べながらウーバーイーツ」ぐらいの解像度まで持っていけるかもしれない。
新しい説を思いつくのは荘厳な瞬間だ。落ちるリンゴを見て万有引力の法則をひらめいたニュートンのように、タイムラインのパスタを見てインターネット地獄の法則をひらめいた僕は、興奮を抑えきれなかった。
この法則を立証するべく、僕はワクワクしながら寝太郎さんについてのリサーチを進めた。
地獄と思想家は紙一重
……が、結果から言えば、リサーチすればするほど、寝太郎さんは地獄ではなかった。それどころか、立派な思想家であり、尊敬してやまないという結論にたどり着いた。
なぜだろうか。少なくとも外形的には、「何か偉そうなこと言ってたヤツが結局ウーバーイーツで生活を始めちゃった」という共通点がある。
では、地獄になるかならないかは、何によって決まるのか。
言うなれば、今回の結論を出すまでに僕がやったことは、地獄の構成要件をあぶり出す作業だったと言えよう。
ディオゲネスという古代ギリシャの哲学者がいる。「犬のディオゲネス」という別名でも知られる彼は、まるで犬のような生活をしていた。
樽の中で寝泊まりし、乞食のように食べ物をもらい、道端で公然と自慰をしていた。(パンク!)
ディオゲネスはそんな「頭のおかしい人」としてのエピソードをたくさん持っており、まあ「地獄」っぽい人である。しかし実際には彼は、後世に語り継がれる哲学者であり、思想家である。
彼の思想は色々あるが、最も知られた功績は「コスモポリタン(世界国家)」という発想を世界で初めて考案したことである。全人類が平等に一つの国家の下で生活するというビジョンは、2000年以上後にロシア革命やEU発足といった運動に影響を与える。まさに大思想家の仕事だ。
このように、地獄と思想家はかなり紙一重である。一見地獄に見えたが思想家だったということはしばしばあるし、その逆も然り。
今回で言うと、「寝太郎」さんは一瞬地獄かと思ったが、彼はディオゲネスだった。そして、今までに扱ってきた「地獄」はやはり地獄である。
では、僕が扱うような「地獄」は何をもってして「地獄」なのだろうか。なぜ彼らはディオゲネスではなく、地獄なのか?
今回はその「地獄の構成要件」について見ていこう。僕が寝太郎さんのリサーチし、今まで紹介した地獄パーソンと比較検討したことを書いていく。お付き合い頂きたい。
奇書「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか」
寝太郎さんについてのリサーチを始めた僕はまず、「彼のブログ面白かった気がするな」と思いながら久しぶりに読みに行ってみた。
すると、やはり面白かった。出るわ出るわ。得体の知れない魅力的な記事が。
例えばこれ。
この記事に「東京にアパートを借りた」というくだりが出てくる。たまらなく魅力的だった。
今年に入ってから都心にアパートを借りた。家賃32000円、洗濯は手洗い、給湯器があるのでシャワーを自作した。
自分の自作小屋は、社会の物語とは切れている。だから、小屋という日常生活がそのまま自分一人の脳内である。したがって、自分の中で時間が止まれば生活全体の時間が止まってしまうし、自分が悲しければ生活全体が悲しくなるし、邪魔がない代わりに逃げ場もない、そういう場所である。何かを根詰めて考えたときにリフレッシュすることができるような「日常生活」がない。
では、都会の暮らしはどうかというと、空虚である。小屋で暮らしている時よりもずっと空虚である。確かに多少の逃げ場はあるかもしれないが、逃げれば逃げるほど自分が自分であるという感覚がなくなる。何から逃げるのか。「自分の死」と「他人の悲しみ」である。逃げている限り、何をしていても他人事のようである。心ここにあらず、現実感なく、ぼんやり生きている。
つまり、第一に、自分自身であることは苦痛であり、第二に、自分自身でなければ虚ろである。そして、第三の選択肢はわからない。
人間は、苦痛か空虚か、常にどちらかを選択して生きなければならないという主張である。すごい主張だ。彼の文脈では、人間は幸福にはなれないのだ。
どうも、彼は「自分一人の脳内」として完結する小屋暮らしの苦痛に耐え難くなったらしく、東京に安アパートを借りたらしい。なるほど、今ウーバーイーツをやっているのはそういうワケか。
彼は、「東京大学哲学科卒、慶應義塾大学大学院哲学科博士課程単位取得退学」という経歴。本物の哲学徒である。確かな知性で紡がれる文章からは、迫力を感じる。
そして、彼のブログを何記事も読んでいく内に、気づけば僕は彼の著書を入手していた。「もっと体系的に彼のルーツを知りたい」と思ったからだ。
手に入れた本がこれ。本名の「高村友也」名義で出している本だ。
この本、とんでもなく「変な本」である。とても人にオススメできない。
普通、本というものは何らかの知見やメッセージを読者にシェアするためのものだが、この本は徹頭徹尾”自分”しか見ていない。読者の方を一切向いていないのだ。
が、僕はそこが面白かった。「自分はこう考えた」というのを淡々と書いていく、それもめちゃくちゃ理屈っぽくてめちゃくちゃ生きづらいロジックが次々に出てきて、すごくシビれた。暗い文章なのに「この人生きるの大変だな~ww」と笑ってしまうほど。例えば、大学時代の話を抜粋してみよう。
クラシックギターのサークルに入った。ナイロン弦が奏でる柔らかな音色が好きで、一人で一晩中弾いているときもあった。
しかし、人前で弾いたときに、手が震えた。もしも、心の底からギターが好きなだけならば、手など震えるはずがない。つまり、自分は、ただ単にギターが好きでギターを弾いているのではなくて、他人に聴かせるために弾いているのだ。他人とこの心地よい感覚を分かち合いたいのだ。なんて不純な動機だろうか。もしも自分がどこか遠い惑星に一人で暮らしていたとしたら、ギターは弾かないだろう。自分のギターに対する興味はホンモノの興味ではない。
そう思って、ギターもだんだん弾かなくなってしまった。
自分の「好き」という気持ちにすら疑念を抱くようになった。その気持を穴の開くほど見つめてゆくと、何も残らない気がした。(p61-62)
この人、生きるのめちゃくちゃ大変そうだ。
いいじゃん、ギター弾くときに手が震えても。「皆の前で弾くの緊張した~☆」でいいじゃん。
この本を読んでると、考えすぎると生きるのが大変だということがよく分かる。著者、すぐに「どこか遠い惑星に一人で暮らしていたら~」という思考実験を始めちゃう。そしていつも「こんなものはニセモノだ」みたいな結論に落ち着いてやる気をなくす。すぐ思考実験しちゃう人は社会生活に不向きだ。
この人に比べると、世間で言う「生きづらい人」の大半はかなり生きやすいと思う。先程、この本はあまりオススメできない本だと言ったが、生きづらい人にはオススメかもしれない。「あ、オレまだマシな方だ。全然生きやすかったわ」と思えるから。
で、このような淡々とした暗い内容が続く本であり自伝なのだが、ものすごく乱暴に中身を要約すると、こんな感じ。
・普通、人間は自分を主人公とした「生の視点」で生きている。だから自分の人生という物語を一生懸命生きることができる。著者も幼少期はそうだった。
・しかし、著者は突然「死の視点」を獲得してしまった。長い宇宙の歴史を基準に自分を俯瞰する視点である。この視点から見ると、人生を一生懸命やろうとはとても思えない。
・やろうと思えば、「死の視点」を捨てて一生懸命生きることもできる。しかし、一度獲得した視点を捨てて生活するのは欺瞞であるから、やりたくない。
・だから、両方の視点を統合して生きたい。死ぬように生きたい。ギリギリ生きていけるだけのものを維持するだけがいい。一生懸命生きたくない
この「生の視点と死の視点の統合」を、彼は心から渇望している。その部分を引用しよう。
すべてを、文字通りすべてを、生と死のすべてを、一望の下に、できることなら一枚の紙の中に、一つの整合的な論理空間として所持しておきたい。一人の人間でありたい。平穏でありたい。自分自身でありたい。楽になりたい。救われたい。ずっとそう思っていた。(p100-101)
彼の「小屋暮らし」は、あまりにも切実な「生と死の視点を統合したい」という思想から始まっていたのだ。
この思想は彼の書く文章に一貫して登場し続けている。彼の行動を規定する、根幹たる思想と言っていいだろう。
また、彼は明晰な頭脳と豊富な哲学知識をバックグラウンドにしつつ、高い筆力で、行動の意図を書いている。「こういう思想があるから、こういう行動を取る」と表現しているのだ。
だからこそ、それに触れた僕は「ああ、なんと賢く純粋な人なのだろう。まっすぐに自分の思想と共に生きてるんですね」と、尊敬の念を抱いてしまう。
それに対し、地獄は…
おまたせして申し訳なかった。寝太郎さんこと高村友也さんは今見てきたように、彼の思想に触れたものを惹きつけてやまない。ディオゲネスである。
しかし、僕が取り扱ってきた地獄はそうではない。
以下、寝太郎さんと、今まで扱った地獄2人を比較検討してみる。実名がバリバリ出るので、ここから有料である。
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