映画「Dr.コトー診療所」 圧倒的な絶望感と、救いの生田絵梨花
【ネタばれを含みます】
映画「Dr.コトー診療所」観てきた。ドラマはシーズン1、特別編、2004、シーズン2と全て観ており、大好きな作品のひとつ。勢いで与那国島にも行ってしまったほどだ。
そして16年の時を経て制作された劇場版。
想像していたよりもずっと「重苦しい」映画だった。
この映画の登場人物たちは、ドラマ終了からの16年、そのまま年齢を重ねている。再結集したスター俳優たちも、「年齢を経た姿」を惜しげもなく、ありのままに晒している。
それを観ながら「ああ、自分も歳をとったのだなあ」と軽く重い気持ちになる。だが、この映画が観客に突きつけるのはそんなものではない。
映画の中で泉谷しげる演じるシゲさんが放つ「この島は最先端なんだよ」というセリフ。少子高齢化や過疎の問題を真っ先に体験してきた、という意味だが、この言葉に隠されたメッセージの重さである。
かつて、ドラマの中で展開される高齢化や過疎の問題は、あくまで「離島の問題」だった。「美しい自然は魅力的だけど、生きていくのは大変だよねー」と、自分たちはその問題を他人事として、あくまでドラマの中のこととして味わっていれば良かった。
だが今回、もはやこの映画が描く問題は、日本という国全体が抱えている問題なのだ、とシゲさんの軽口を通じて宣言しているのである。
もはや離島や過疎地域だけではない。日本の国全体が、深く、静かに老いている。しかもそこに、若い世代の貧困など、新たな問題も重ねられている。圧倒的な絶望感が、この映画全般から漂ってくる。
新たな登場人物である判斗先生が「島の人たちはコトー先生に甘え過ぎだ」と冷静に指摘する場面。この映画の出来に批判的な多くの人は「判斗先生の主張は正しい。なのになぜあの結末になるのか」と見ているようだ。
だが判斗先生の指摘に言い返す島の人たちの「そんなことは分かってる」という言葉こそが、現実である。もはや日本は、正論を述べたところでどうしようもないところまで来ているのだ。そう考えざるを得ない場面が、身の回りでも、メディアを通じて知るニュースにも、あまりにも多すぎる。
だからあの様々な解釈が可能なラストシーンは、自分にはとても悲しい場面として目に映った。
いびつな社会構造が放置された結果、島の人々もコトー先生も、そして日本人全員が「殺される」。その中で抱き続ける、わずかな願いーーせめて今この瞬間だけでも家族と生きる幸せを守りたい――それを映像化したのがあのラストシーンではないのか。そこから伝わってきたのは、悲しさだけでなく、圧倒的な絶望感。そしてふつふつとこみあげる、静かな怒りだった。
みずみずしい感動を求めて劇場に足を運んだ人達には、拍子抜けだったかもしれない。だがそんな「感動」をかなぐり捨てて、この映画はあまりにも重い現実と、あまりにも暗い未来を指し示す。
ところがです。ところがですよ?
映画全体を観終わった感触は、さほど重苦しいものではないのだ。
その重さを1人でひっくり返したのが、生田絵梨花のキラキラした存在感である。この映画の唯一の救い、と言っていい。
おかげで、つらい事実をたんたんと突き付けられる展開でもずっとスクリーンを見続けることができたし、劇場を明るい足取りで出ることができた。島の人たちがコトー先生に寄りかかるように、自分は上映中ずっと生田に依存していたのだ。
志木那島の人たちを救ったのがコトー先生なら、これからの日本を救うのは生田絵梨花かもしれない。
映画「Dr.コトー診療所」公式サイト
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