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ホセ・デ・アルメイダ

僕の先祖が辿った足取りを追って旅をするというコンセプトで、当シリーズをお送りします。なお、インターネットでサーチ出来る事柄はリンクを貼っていますので、ご興味のある方はご覧になってください。

初回は僕の6代前の祖先にスポットライトを当て、その生まれ故郷を(想像で)訪ねてみます。
彼の名はホセ・デ・アルメイダ(Jose D' Almeida)、ポルトガル人、元医者で、のちにビジネスマン、マレー地区ポルトガル総領事、植物学者となった人物です。
ちなみに、数年前まで自分の血の中にポルトガルの血が入っているのを全く知らず、家族も親戚も誰も知らなかった。
インターネットというのは実に便利なもので、場合によってはある程度は調べる事が可能です。
では、なぜこの人物の事を家族親戚一同が知らなかったかといえば、恐らくはどこかの時点でクレーン家はイギリス人というアイデンティティーにこだわるあまりに、この事を隠蔽していた疑いがあります。
19世紀から20世紀初めまでは、イギリスは世界で勢力を握っていたので、自分たちの一家は純イギリス家系だ、とアピールしたかったのかもしれません。
いずれにしましても、この人物の事は僕が調べるまでは誰も知りませんでした。

ホセ・デ・アルメイダは1787年11月27日にポルトガル領、アゾレス諸島で生まれ、1850年10月17日にシンガポールで65歳で亡くなりました。アゾレス諸島という名は聞きなれないかもしれませんが、ポルトガル本土から1000キロ離れた大西洋にポツンと浮かんだ9つの島々を指します。
イメージとしては、ハワイや沖縄に近いかもしれません。
現在の人口は約24万人、気になる方はインターネットでサーチをすると分かりますが、ちょっとした地上の楽園のような島々です。

それほど知られた所ではないのに、古来から現存している街並みと葡萄畑が世界遺産として登録されているので、現在では穴場的な観光地となっています。
もちろん僕も行った事はないのですが、写真を見ると島と街並みの景観はまるでファンタジー映画の一シーンのように見事です。
なぜここに古い町が残っているのかといえば、実はこの島々はかつては大航海時代に中継地として栄えた歴史があるからなのです。
かつて、ヨーロッパ中から人々がアゾレス港に集まり、ここからアメリカなどの新大陸へ夢を求め旅立ちました。
もしやご先祖のホセは幼い頃からそれを見て『いつか僕も世界へ行くぞ~』と思っていたのかもしれません。
きっと銀河鉄道999の星野哲郎のような少年が、たくさん居たのでしょう。

──ホセ・デ・アルメイダのルーツを調べると、どうやら何代か前まで、アルメイダ家はずっとアゾレス諸島で生きていた事が分かります。
確認できる資料によれば、15世紀にはすでにアルメイダ家はアゾレス諸島で暮らしています。
アゾレス諸島は1427年にポルトガル人により『発見』され、植民地化されているので、比較的に初期の頃にアルメイダ家はアゾレスに定住をしているのでしょう。

当時からアゾレス諸島は捕鯨と遠洋漁業港として栄えていたので、もしかしたアルメイダ家はクジラを採って生計を立てていたのかもしれません。
当時ヨーロッパはクジラの油を、ランプの明かり用に大量に消費していました。
現在では、アゾレス諸島はクジラを直に間近で見れるエコ・ツーリズムに力を注いでいます。
過去も現在でもアゾレス諸島の人々は海の恵みで、生きています。

さて、いつホセがアゾレスを出たか定かではありませんが、1820年、ポルトガルで『自由主義革命』という内戦が始まり、アゾレス諸島が自由主義派の拠点となります(自由主義派がポルトガル本土から逃れ、アゾレス諸島に流れ着いたようです。今でもその名残りがアゾレス諸島のシンボルである旗に残されています)。
それとの因果関係は不明ですが、ホセは遠く離れたポルトガル領マカオで、この革命主要メンバーとして活動しています。それ以前には、ホセは軍船で船医として働いていたという記録がありました。

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もしかしたらホセはこの頃に、自由主義者の戦士と意気投合をしたのかもしれません。その後、ホセはマカオの中国最古の西欧病院、聖ラファエル病院で医師として働いています。

ポルトガルの自由主義革命はイメージとしては、日本の明治維新が近いかもしれません。
当時、ポルトガル王は権威剥奪されて、ブラジルに追放されていました。
自由主義派の活動には、ポルトガル王を本国に戻す、という運動も含まれていました。なので、もしかしたらアゾレス諸島は地理的に革命を指揮するには最も適したのかもしれません。
アゾレス諸島は本国からも1000キロも離れていましたし、アメリカ、ブラジル、その他植民地の中継点でしたから。

ポルトガルの『自由主義革命』は当時、ポルトガルのフリーメーソンにより主導されていました(詳しくはリンクのウイキペディアをご覧ください)。
恐らくはフリーメーソンの『自由/博愛』の思想を、革命と重ね合わせて活動をしていたのでしょう。
後に都市伝説的に語られる、革命の陰にフリーメーソンあり、というのは実際にこのような歴史背景があるからだと推察されます(これは、また後の投稿でも触れます)。
ホセの孫、ウイリアム・アルメイダ・クレーンは幕末に日本に来て、仲間達と共に日本初のフリーメーソンのロッジを設立しますが、明治維新に加担したという証拠は何も見つかっていません。

──ホセの話に戻ります。
実はというと、ホセ自身がフリーメーソンのメンバーだったという記録は今の所見つかっていません。このころ、すでにホセは結婚をしており、子供達もいました。
当時医者をやっていたホセはマカオで仲間たちと共に革命を起こし、1822年、本国から派遣された軍に捕まって、裁きを受けるためインドのゴアに送られます。恐らくは死罪も有りえたでしょうが、ある人物の手引きにより、その難を逃れます。
その人物とは、後にシンガポールの創始者として知られるスタンフォード・ラッフルズ

ラッフルズはゴアで出会ったホセを、開港したばかりのシンガポールに医師として亡命させます。
当時、シンガポールはマラリアなどの伝染病対策で医師を必要としていました。シンガポールで土地を購入し、当初は医師として活動していましたが、やがて貿易商を開始し成功を収めます。ホセは密かにマカオに戻り、家族を全員シンガポールへ連れ出し、残りの生涯をそこで過ごします。
もしかしたらホセはラッフルズから思想的影響を受けていたのかもしれません。──というのは、当時ヨーロッパ人達が関心を示さなかった現地の植物の研究にラッフルズは情熱を傾けており、ホセも晩年、植物学をライフ・ワークとしていました。

ここら辺は想像の域でしかないのですが、ホセにとってはラッフルズは命の恩人である筈で、きっと多大なリスペクトはあったと思われるのです。
元々は医者な訳ですから、その興味対象が自然科学の探求となったのも、また自然な事なのでしょう。
シンガポールでビジネスを成功させたホセは、晩年、現地の植物の発見や交配や輸入した植物の繁殖などをしていました。アルメイダ・バナナと呼ばれる品種は、ホセがシンガポールで品種改良ををした種です。
失敗をした事が殆どなようですが、この頃の一番大きな功績はグッタペルカ(ガタパーチャ)というゴムの木に似た植物を西欧に紹介した事でしょう。

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ホセは、仲間の医師と共に、医療目的でグッタペルカを研究していました。現在でもグッタペルカは歯科医療用として使われています。グッタペルカは、西欧で認知されると、その電気の絶縁性がいつしか知られるようになり、グッタペルカを材料にした海底ケーブルがドーバー海峡に1850年に設置されました。
世界初の通信革命が、この年に為された訳ですが、当のホセは同年に死去したので、この快挙を当人が知ったかどうかは定かではありません。

日本では1871年に、初の海底ケーブルが長崎~上海間に開通します。
とても因果めいていますが、大西洋を横断する海底ケーブルが1900年に、ホセの生まれ故郷、アゾレス諸島を中継点としてニューヨークまで通されています。
しかし、このような歴史を、当の島民が、どれだけ知っているのか、分かりません。

──ここら辺は、もう少し調べないとはっきりしないのですが、
ホセがかつて研究施設としていた敷地は、現在では『シンガポール植物園』として世界遺産登録されています。ホセが輸入した植物は今でも、この植物園やシンガポール全域に分布しています。
ただ、表向きはこの施設はスタンフォード・ラッフルズが所有していた事になっているのですが、実はラッフルズは当時殆どシンガポールには居なかったようです。
──誰か詳しい人がいれば、ぜひ教えてください。

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ホセの肖像画が一枚だけ残されています。描かれた年代は定かではありませんが、胸の飾りから推察するに、ポルトガルから称号をもらった直後に描かれたのでしょう。

長くなりましたが、ここまで読んでいただいた方がいればお礼を申しあげます。
想像だけでも、歴史や海外の冒険を楽しんでいただければ何よりです。

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