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THE LAST OF US PART Ⅱはゲーム史に残る破壊的作品 かも知れない

クリアしました

 ゲーム界のマスターピースの一つである前作から7年、直接の続編である「PARTⅡ」がついに発売された。
 発売直後から賛否両論の嵐が吹き荒れるなか、ぼくもようやく先日ゲームクリアを果たした。

 前作を始めアンチャーテッドシリーズなどでも高い評価を得ているスタジオ、スタッフの作品である。クオリティについては言うまでもない。美麗なグラフィック、なめらかなモーション、緊張感のある戦闘、そして素晴らしいシナリオ。当然のようにハードルを越えてきている。
 けれど、この作品のもっとも衝撃を受けた点は個々のクオリティではない。それはこの作品の、ゲーム界に対する"破壊的"性質にある、とぼくは思う。

事前プロモーションによるミスリード ※ここからネタバレあり

 今作は、前作主人公のパートナーであるエリーが主役となり、とあるキャラクターの死に報いるため、復讐の旅に出るという物語である。

 というプロモーションが為されていた。

 それはウソでは無かったが、事実であるともとても言えない。プロモーションを通したスタジオのミスリード戦略により、視聴者はそういうストーリーであると誤解させられていたのだ。
 実際にはそうでなかったということは、ゲーム冒頭で暗示される。最初の操作プレイヤーがエリーでは無く、新規に登場した、プレイヤーには全く馴染みのない(一応トレイラーでは登場していたが)アビーというキャラクターなのだ。
 このアビーこそが今作のもう一人の主人公であり、エリーと対置されるキャラクターである。

 この他にも事前プロモーションではさまざまなミスリードが仕掛けられていた。これはストーリーメインのゲームで初めての体験を損なわないための手段であり、洗練された高い技巧によって行われたと評価している。しかし悪評の一部はこのミスリードが原因で、批判者が騙されたと感じる一因にもなっていると思われる。

 それはともかくアビーだ。先述のように、アビーはエリーと対置されるキャラクターである。容姿も、赤毛で背が低く、そばかすがあって幼い印象のエリーとは対照的で、金髪で体格に恵まれている。
 操作キャラクターは冒頭が終わるとエリーにバトンタッチするが、ゲームが折り返し地点まで来ると再びアビーに戻る。シナリオだけでなく、ゲーム的にもアビーが主役であることがここからも分かる。

二人の主人公によって炙り出されるもの

 プレイヤーは、まずエリーの側の物語を見、その後、アビーとして別の視点で同じ物語を見る。神業的なストーリーテリングと練り上げられたゲームデザインによってプレイヤーは、未だかつてゲームでは描かれたことがない、それどころか他のどんなメディアでも成し遂げられなかった、あるものを突きつけられるという体験をする。

 人を殺すことがどういうことであるか、という事だ。

 今作を始め、近年の美麗なグラフィックのゲームは「映画的な」という形容詞で語られることが多い(そして実際、その評価が正しいと言わざるを得ないゲームも多い)。
 だけどこのゲームに限ってはその形容詞は不適当だ。この体験はゲームで無ければ得られなかったと断言出来るからだ。

 エリーとアビー。この対照的でありながら鏡映しのキャラクター。彼女たちを両方自分で操作してこそ、プレイヤーはそこに至ることが出来る。

 善悪だとか、正義だとか、悲壮な決意だとか、愛だとか、或いは露悪的な残酷さだとか。そういう"人を殺す"時に使われる言い訳は、両方のキャラクターを操作する事によって一つ残らず潰されてしまう。
 連立方程式の式同士を足したり引いたりすると打ち消し合って答えが浮かび上がるように、プレイヤーはあらゆる逃げ道を塞がれて、純粋に"人を殺す"と言うことに強制的に向き合わされるのだ。

 それは、今まで繰り返しさまざまなメディアで描かれてきたものとは解像度のまるで違う、暴力的で破壊的な『問い』である。なぜならプレイヤーは、これまでの二人の物語を、秀逸なゲームデザインと語り口によって、自分のものとして受け取っているからだ。

 そこに到ってプレイヤーは心を2つに引き裂かれる。相反する立場にいる二人の心情によって。プレイヤーにはどちらかの立場に立つという逃げ道がない。二人は鏡映しの存在であり、どちらかの立場に立つということはもう一人の立場に立つことと全く同じなのだ。

 プレイヤーは反対の視点に立つことで自分の行いに気付かされる。物語のキーキャラクターに対してだけでは無い。マップの障害物として配置されていたあの敵たちが、仲間を殺された時に上げた叫びの意味も、感染者が最後に遺した書き置きの意味も、プレイヤーはより深く気付くことになるのだ。

 このゲームの救いであり、或いはもっとも卑怯な点は、このゲームにプレイヤーの選択の余地が全くない事だ。プレイヤーに出来ることは、ゲームを進めるか、あるいは投げ出してしまうことだけである(そしてゲームの面白さとシナリオの巧さによって後者は実質的に不可能だ)。
 プレイヤーは、全く自分の選択でない行為を、自分のものとして受け取らされてしまう。主人公たちが下した行いなのに、理不尽にもまるで自分の罪のように感じさせられるのだ。
 そして同じ理不尽によって、プレイヤーは主人公たちの出した答えを受け入れる。まるで自分が選択したようにだ。

 現代ゲームのもう一つの方向性である「自由な」ゲームより、「映画的な」今作のほうがはるかに自分が選択したという感覚が強いというのは皮肉な話だ。
 これは、実際には「自由な」ゲームの選択肢というものは往々にして非対称であったり、物語の行く末にほとんど影響が無かったりする一方で、今作の最後の選択肢が、葛藤によって均衡しており、どちらを選択しても自分の選択だと納得出来るからだろう。

ゲーム界を破壊するかも知れないゲーム

 さて、タイトルを回収しよう。
 ここまで長々と解説したのだから分かっていると思うけど、このゲームがゲーム界を破壊するかも知れない点というのは、もちろん「人を殺すことに向き合った」ことだ。
 言うまでもないけれど、人を殺すゲームというのは大変数が多い。メインストリームといっても過言ではない。人を殺すゲームといえば洋ゲーのシューティングゲームを思い起こすかも知れないが、日本のゲームでも人を殺すゲームというのは存外多い。RPGやアクション、アドベンチャーゲームで、ぼくらは気軽に人を殺しまくっている。

 しかし、今作を体験したあとで、あの葛藤と罪悪感を味わったあとで、ただのザコ敵にすら感情移入してしまうようになったあとで、果たしてぼくらはゲームで気軽に人を殺せるだろうか?

 たとえプレイヤーがそう出来たとしても、開発者は果たしてどうだろうか。このゲームによってこの問いを突き付けられたあと、人を軽々しく殺せるゲームを、果たして作れるのか。

 前作ラストオブアスはゲーム開発者に多大な影響を与えた。あの作品のあと、まるで雨後の筍のように「(擬似的な)親子関係を描く」パートのあるゲームが次々にあらわれて、クオリティの微妙さも含め食傷気味になったのを覚えている。前作はまさしく記念碑的作品であり、あとに続くゲームがすべてそれと比較されてしまうようなゲームだった。

 果たして今作がそのようなフォロワー作品を生み出すのか。たとえ拙い出来だとしても、同じような構造の作品を作れるだろうか。

 今作は、ただ出来のいいゲームというだけでは無い。現在主流のゲームジャンルに突き付けられた重い問いだ。人を殺すという問題はなにもゲームに限った話ではなく、現実世界にも溢れているからだ。そしてその問いが、外部のいわゆるポリコレ的なものではなく、ゲーム業界の中から、ゲームという形で提出された。無視するのは難しいだろう。
 全く人を殺さないゲームを作るか。あるいは今作と比べられる覚悟を決めてフォローするのか。どちらにしろ方向修正には時間が掛かるはずだ。

不満点あるいは解決法

 破壊とはそういう意味だ。ただし今作のゲーム中に一応、解決のヒントは示されている。そしてそこは、このゲームで不満の残る点でもある。

 ゲームの最後のパートでは、わずかに生き残った人々を狩り集め、奴隷として使い潰す残虐無比な集団が登場する。つまり、葛藤を覚えず思うままぶっ殺せるわかりやすい敵を出す、ということだ。

 ここに辿り着いたプレイヤーの心情や、そのあとの展開を考えると、開発者がこれを選択した理由は理解出来る。出来るけれども、今までのキャラクター描写の深さを鑑みるに、やはり安易な選択だったのではないかという気持ちは否めない。もう少し違った展開に出来なかったものか……

"ポリコレ"について

 このゲームについて語らなければならないことは他にもたくさんある。例えば"ポリコレ"についてだ。ぼくの趣味的にもここは語っておかなければならないだろう。

 特に今作では"ポリコレ"にかなり気を使っていると感じた。敵も味方も人種・性別ともに豊富で、南米系やアフリカ系、アジア系の男女が分け隔てなく登場する。何気なく背後から忍び寄って殺したザコ敵が女性だった時にはびくりとしてしまった(そしてこれが、ぼくのなかにまだ残るジェンダーバイアスなのだろう)。

 さらに、海外でもいまだ進みの遅いLGBTQ+についても進歩的な描写をしている。言わずもがな、前作の外伝でレズビアンであることが判明した主人公のエリーを始めとして、バイセクシャルやトランスジェンダーがメイン級のキャラとして登場する。少し違うが、もう一人の主人公であるアビーも、一般的な女性らしさとは離れた容姿をしている。
 そしてそれらは、単に"ポリコレに配慮して入れた"、というものでは無い。展開のキーとなって融合し、シナリオの欠くべからざるものになっている。

 この作品は、ポリティカルコレクトネスが、単に面倒な言いがかりなどではなく、物語に深みを与えることも出来るものだという証拠の一つとして挙げられるものになるはずだ。

そして殺伐百合へ……

 ここからは完全に趣味の話なので、ヘッダータイトルに全く心当たりのない方はここで読むのやめることをオススメします。

 というわけで、ぼくが普段棲息している界隈の話です。そう、百合。

 この界隈の人間にとって、今作の初トレイラーは衝撃だったでしょう。前作でレズビアンだと分かっているエリーが!!なんかラテン美女と!!いい雰囲気で!!!ああああああ!ちゅーした!ちゅーしたぞ!!!みんな見た?ちゅーしたよな!ちゅー!!!!あわわわわわ……!!!皆さんそんな感じだったでしょうか。しかもそのあとの陰惨な展開を思わせる描写。嫌が応にも高まる期待と不安。一体あの二人はどんな関係性を見せてくれるのか。

 クリアした人は知っていますね。はい、あのプロモーションはミスリードでした。

 いや、二人の関係が存在しなかった、とか、そういう事ではないんです。結構重要なキャラですし。期待外れって話でも無いんです。二人の感情の積み重ねとか。葛藤とか。丁寧に描かれてましたし。

 でもね、それを吹き飛ばしちゃう関係性があったんです。

 そう、 アビー × エリー

 マ ジ ヤ バ

 仇同士でありながら鏡合わせのようにそっくりな二人。育った環境も容姿も何もかも違うのに、お互いの気持ちを完全に理解していて、それゆえに相容れない思い。会えそうで会えないすれ違いの連続はまるでラブコメ。ついに巡り合ったとき始まる宿命の対決。決断。さらなる再戦(この過程でラテン美女を捨てる)。決着。

 もうね。

 ほんともうね。

 言葉が無い。

 ゲーム業界にとっては破壊的作品だけど、殺伐百合界にとってはやはりマスターピース。エポックメイキング。記念碑的作品。

 すべての殺伐百合作品は道を譲れ。

 いやこのあと書けるかな?ってなるわ……ほんま……

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