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【映画】感想を書かせない映画『落下の解剖学』の感想




■漏瑚くんとウィトゲンシュタイン先生

この映画は2024年2月23日に公開された。
劇場に観に行ったのは公開日から1週間以内であったと思う。

めちゃくちゃ面白い!
目が離せない!いろんな人に見てほしい!

と思って、映画の魅力を言語化しようとしてみた。

すると

どんな風にも書ける!どれだけでも書ける!
でもどうやっても取りこぼす!
だめ!できない!

感想を言語化しようとして路頭に迷ってしまった。


内容が難しいかと言えば、比較的そうであると思うが
理解できない部分はなかった。
突飛な展開もない。

だからこそ、感想が書けない。
どのような形でも理解ができる!
幾通りもの解釈と幾通りもの切り口が考えられる!

まさに「無量空処」!

呪術廻戦より(最終回楽しみ)

そんな漏瑚くん状態に陥ってしまった僕の脳裏に
一筋の光が!


ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン先生

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


せ、先生!!!
わかりました!!!


ということで、今まで沈黙を貫いてきました。

最近アマプラでこの映画が配信されていて見直したので、
これを機に沈黙と、先生との約束を破ってみたい。


■AでもBでもないが、AでありBである

ちょっと茶番は休憩して、もう少しまじめに書いてみる。
あ、ネタバレあります


この映画、冒頭で人が死ぬ。
(まあポスターでこれは明示しているのでかしこまっていうことでもないが)

これは殺人なのか、事故なのか、はたまた自殺なのか。
目撃者不明の死亡事件は裁判にかけられ、様々な角度から真実を追求していく。


・・・


さて、
映画を観終わった後、真実は分かるのか!?

端的に言って「真実はわからない」。
誰が正義で、だれが悪なのか、それもはっきりしない

それどころか裁判中に真実として確定されたものは何一つないと言っていい。


映画中の裁判では
真実を掴もうと様々な問いがたてられる。

それに対し、この映画が答えるのは

「AでもBでもないが、AでありBである」という答えである。


■いくつも立てられる問い、いくつも答えられる答え

映画中に立てられる無数の問いの中で主要なものをあげてみると、

死んだ男性の妻が殺したのか、
夫婦の息子は真実を知っているのか、
妻と弁護人は恋愛関係にあるのか、
男性は自殺願望を抱いていたのか、
夫婦仲は悪かったのか、

どれもこれも、YESともNOともいえる。
少なくともそう見える。


妻のサンドラは
裁判中でも堂々と話すことができる気の強い女性であるし、
著名な小説家で名声もある。
悪役を当てはめて、狡猾な完全殺人を目論んだという見方もできるし、
事故か自殺に当惑し、それでも気丈なふるまいをする悲劇のヒロイン役も似合う。
残された視覚障害の息子を愛してるとも見えるし
印象を操作して、操ろうとしているようにも見える。


11歳の息子のダニエルは
視覚障害を持っているが、親などを伴わずに犬を連れて近所の散歩もできるし、SNSを楽しんだり、ピアノを練習したり、かなり自立した少年。
しかし、証言を撤回したり、急に思い出した話をしたり、いまいち信用できない印象もある。
それが本心であるのか、誰かをかばっているのか。


サンドラの古くからの友人で、弁護人としてこの事件にかかわるヴィンセントは、弁護士としてかなり優秀である。
法廷のシーンでは、各所に気を配り、裁判の雰囲気が相手方に傾いたと見るや、視点の転回や主観的事実の危うさを説明し訴え、スマートに被告人(サンドラ)を守ろうとする。
それは弁護人として貫く信念のためか、それとも恋愛感情のためか。
この二人随所でいい雰囲気になるが、絶妙に恋愛しているかどうかジャッジに困る行動をしている。お互いに。


死んだ男性サミュエルは、映画中で生きた姿をリアルタイムでは見せない。
証言や録音などの記憶や記録上のサミュエルが登場するのみである。
小説を書きたがっていたが書けなくて悩んでいた
息子の事故を気に病んでいた。
妻の作家業での成功をうらやんでいた。
妻を愛していた。
妻を恨んでいた。
うつ病の薬を飲んでいた。
口論ののちに暴力をふるった。
どれも真実らしい真実で、だけど断片的なものである。


終盤で明かされる夫婦喧嘩の録音では
どちらの言い分もありどちらかが100%悪いとは言いづらい。
そして口論の内容がどこまでが真実かもよくわからない。
それどころか、二人とも感情に任せて次々と話題を移して
成り立っているようで成り立たない議論をしている。


■演出が足りない、という演出をしている。

このように主要な登場人物すら、その人物像がどんなものかを確定させてくれない。

通常、物語を演出し、観客にストーリを伝えるために
登場人物のキャラと関係性をいかにわかりやすく伝えるかを追求する。
そのために時に過剰に表情をみせたり、セリフを変えたりと大きく細かく工夫を積み重ねて演出していく。
複雑な人物であればこそ丁寧に観客に説明する必要がある。


この映画ではそんなことはしない。
演出がたりない、という演出をしている。
不十分な演出を大量に施すことで、人物像を掴ませない。
悪人であるような演出がされるが、確定されない
その次に、善人であるような演出がされるが、確定されない。

価値観や先入観によってつくられた「主観的事実」
築かれては崩れ去っていく。

そんなことがずーーーっと続く。

様々な角度から価値観を揺るがし、確かなことなど一つもないのだという気分になる。


■客観的事実の排除

そうやって、混沌と化した法廷に確固たる判断材料を与えるのが科学である。

客観的事実に基づいた証拠は強い追い風となるのだ!


。。ところが、そうはいかないように作ってあるのがこの映画。
落下の状況を科学的に説明しようとする両陣営は
異なる専門家が放つ異なる見解を提示する。

どちらも今一歩真実を確定させるに足りない。

この映画は
そうやって客観的事実による真実の確定をもことごとく拒む脚本なのだ

法廷では客観的事実の提示を求む、と両陣営から何度も言われるが
観客はそんなものはとても出てこないとだんだん気づかされる。

(多分)歴戦の弁護士や検察も呪文のように唱えるだけで、そんなものは幻想であると認識しているようにも見えた。


■「確定できないことも選ばなければならない」(うろ覚え)

この映画の中でダニエルは観客に近しい存在と言える。

11歳にしては賢い彼であるが、
視覚障害ということもあって得られる情報が限られる。

両親間の争いに関しても、あまり感知してこなかった。
両親側も、事故の責任を意識して、あまり核心の話ができなかったのかもしれない。


周りの大人に心配されながら、裁判を傍聴し
観客と一緒に提示される「証拠」を一つ一つ飲み込んでいくダニエル。

しかし、これまで書いたように、真実がどんなものなのか
確定できないし、確定してくれる人もいない。
(安易に確定しない人間はある意味良いことなのかもしれないが)

そこで彼は、裁判所からダニエルの保護をするために付き添っているベルジェに相談する。

ベルジェはダニエルに諭す
「確定できないものについても、どちらかに決めなければならない時がある。
そのとき決めたふりをするのではない、心を決めるの」(うろ覚え)


この言葉で、この映画のラストが決まったといっても過言ではない。
ダニエルは、法廷でもこの言葉を引用し、あるエピソードを話す。
その後結審し、映画は幕を閉じる。

これは映画を通して、伝えられるメッセージの核心部分であると思われる。
不確定の真実には、自分の決心=心に決めた判断をすることが大事である。
それは確かに人生を左右するのだ。




■え、これ現実じゃない?


さてさて、映画でも漫画でもない現実を生きる皆様、
いかがお過ごしですか?

現実には、
確定される真実がどれだけあるでしょうか
漫画のキャラクターのようなわかりやすい性格の人間がどれだけいるでしょうか?
あるときに抱いた感情は未来永劫心変わりしないのでしょうか?
ある行動の原因はたった一つだけでしょうか?

むしろ、事実を検証せず確定させないままで通り過ぎることも多い現実は、この映画の構造に似ている。

日々揺らぐ価値観に、正解のないテストを受けさせられている気分の人間もいっぱいいるだろう。

その時にベルジェの言葉とダニエルの行動を思い出してほしい。

「確定しない真実」に答えを与えて
自分の生きる道を切り開くのは、自分自身なのだ。



混沌に満ちた現実に自分で色をつけて、絵にしていく作業を人生の意味としてもいいのではないかと思う。




■卒業

ウィトゲンシュタイン先生、
僕は先生から卒業します。

先生の言葉を少し変えてこのように表現します。

「語りえぬものについても、決心しなければならない」




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