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Macintoshは心理学者が設計している|融けるデザイン2020 #3

融けるデザイン2020は出版5年を記念して、融けるデザインを著者なりに振り返りつつ、少しだけ融けるデザインその後を何回かに連載して書いていくものである。

今回は連載3回目。いよいよ1章の内容を振り返っていく。

「Macintoshは心理学者が設計している」

この章は、この本にとっての始まりでもあるが、僕の人生の始まりといってもいい。融けるデザインがあるのもこの一言があったからだ。

1998年の高校2年冬、通っていた塾の先生の進路相談。AppleやMacの存在は知っていたが、そもそも僕自身はパソコンを買ったのが高校生からだし、Windowsを使っていた。進路相談ってふつうは、どこの大学へ行くか?って話なわけだけど、ここでヒューマンインタフェースの話をされるわけだ。そのときはヒューマンインタフェースという言葉ではなく「使いやすさと心理学の関係」の話だったと思う。

でも、ここからが早い。当時は検索エンジンもまだまだっていう時代だったけれど、Yahooとかinfoseekとかgooとか使って、この分野について一生懸命調べた。その結果、D.Aノーマン「誰のためのデザイン?」やインタフェース設計の世界があることを知る。

デザインはファッションだと思っていた

おそらく今もそう思われているところはあると思う。また高校生だった僕はアートとデザインの区別もついていなかった。このあたりは中学や高校の美術教育にも問題はあると思う。だから、心理学とデザインが結びつくことはないし、何なら心理学は、バラエティ番組のせいで「心理テスト」(Bの絵を選んだあなたは○○な人」みたいな印象で、認知心理学という認知と心理の結びつきなんていうのは知る由もなかった。まして、そこに「コンピュータの設計」という理系的な話が入ってきて、完全に「分野」というものが僕の中で崩れていった。

高校の工芸の先生に「コンピュータの画面の心理的な使いやすさのデザインの勉強をしたい、どこ行けば学べますか、わかりますか」と聞いたのが懐かしい。完全に場違いだった(笑)

情報技術と結びついたデザインはどこで学べるのか?

実はこれは今でも難しい。

僕自身は、当時慶應義塾大学のSFCに安村通晃研究室というヒューマンインタフェースの研究室があるということをネットで知り、結果的にSFCへ行くことへなったが、他の大学も相当調べたがなかなかしっくりくるところがなかった。多摩美術大学情報デザインがあることは、一応なんとなく知ったが、入試形態的なことと、やはり美大に対するイメージとデザインに対する解釈が高校生の自分にとっては腑に落ちていなかった。当時はちょうど「はこだて未来大学」ができた年でもあり、はこだて未来大学もありだったかもしれない。

情報技術と結びついたインタラクションデザインを学ぶという意味では、慶應SFC、はこだて未来大学、そして私が今所属している明治大学総合数理学部先端メディアサイエンス学科は情報技術とインタラクションデザインを学ぶ場所としては良いだろう。ただ、これが現場のWebサービス開発やアプリ開発にすぐに役立つようなことをやっているかといえば、研究が軸にあるのでそれを期待して来ると場違いとなるだろう。美大においては、もう少し現場に近いところもあるかもしれないが、とはいえ大学の役割は職業訓練ではないのでWeb上にあふれるUI/UXと書かれるような記事を学ぶような場所ではない。

テクノロジーとリベラルアーツの交差点

2010年に、スティーブ・ジョブズがApple社のあり方、思想として「テクノロジーとリベラルアーツの交差点」という表現を使った。

書籍にも書いている通り、Macintoshは心理学者が設計しているという話はここでも繋がってくる。リベラルアーツの重要性は90年代からも問われており、当然昨今でも問われている。

では、リベラルアーツとは何なのか?

たとえば、東京大学の教養学部報を見てみると、

リベラルアーツというのは本来、単なる一般教養の同義語ではない。これは古代ギリシアにまでさかのぼる概念で、人間が奴隷ではない自立した存在であるために必要とされる学問を意味していた。中世ヨーロッパにおいては、人が自由(リベラル)であるために学ぶべきもろもろの技芸(アーツ)を指し、具体的には文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽の「自由七科」がその内容とされていた。現代の私たちから見ると、天文学や音楽が入っているのは意外な気もするが、それはともかくとして、これは要するに、人間を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための知識や技能を指す言葉だったのである。
現代人はすでに自由ではないか、べつに何かに囚われてなどいないのではないか、と思っている人も多いかもしれない。しかし普段はあまり意識しなくても、私たちはさまざまな条件によって限界づけられている。たとえば日本語しか話せない人は、英語しか話せない人とは意思疎通することができない。法律のことしか知らない人は、物理学のことしか知らない人とは深く理解しあうことができない。このように、種々の制約によって私たちの人間関係や社会活動は否応なく限定されている。言ってみれば、私たちはみな有限であるがゆえに、何重もの不自由さに囲い込まれた存在なのである。
だからそうした不自由さから自らを解き放つために(言葉本来の意味において「リベラル」になるために)、私たちは未知の外国語を学んだり、異なる分野の学問を勉強したりしなければならない。そうすることではじめて、人は自分と違った環境で生きる人々とコミュニケーションをとり、それまで知らなかった価値観に触れることができる。そしてそれは必然的に、広い見取り図の中で自らを相対化し、他者への敬意と謙虚さをはぐくむことにもつながるはずだ。

コンピュータはメタメディアだからこそリベラルアーツの力が求められる

コンピュータはとは何かという話もこの章で書いている。コンピュータは圧倒的な自由度を持った何でも装置であり、メタメディアだと書いた。一方で、その自由は「定義」を与えないと価値にならないことを書いている。つまりコンピュータに制約を与えることだ。

エンジニアやデザイナーにとっては自由度の高いプログラミングやピクセル表現は無限の可能性であるが、ユーザーにとっては無限に未知な存在である。Wordというソフトウェアが与えられるからこそ文書作成に集中できるが、コンピュータでWordというソフトウェアなしに毎回プログラミングして文書作成ソフトを作り、そして文章を書くということでは、自由度は高いから素晴らしいとはいえない。

このコンピュータ、メタメディアに定義を与えるスキルに、リベラルアーツの力が求められるのである。その最初の専門家として、認知心理学者やHCI(Human Computer Interaction)研究者たちがコンピュータをどう定義し人にとっての価値を与えるかの設計を行った。そこで例えば「メタファ」を使うという設計方法が採用されていく。そして、そのメタファには限界もあり、スキュアモーフィズム表現から、フラットデザインへと向かったと考察した。詳しくは書籍に書いている通りである。

こういった設計の場面では、人間、人類、人間性を冷静に考察できる力が必要になってくる。だからこそコンピュータの性質上で、魅力的なサービスやUIやUX設計をするためには、リベラルアーツを基礎に置き、生活や社会に対する審美眼を持つことが重要になる。最近、デザイン思考に続くように「アート思考」というような言葉がバズっている(あるいはバズらせようとする力が業界で働いている)。これも基本的には自由度の高い状況に対して、制約を与える力、自ら定義していく力のことを言っているように思う。

大学にはUIやUXを直接学ぶ場所は少ないかもしれないが、大学で学問するということは、この力を鍛えることでもあるし、UX設計の上流工程の基礎力を身に着けることだろう。

体験から考える設計へ

体験という言葉は大変都合よく使われている。そのため融けるデザインでは、体験の設計について3つのレイヤに分けた。意外とこの分け方は評判がよい。

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UXがバズったのは、ユーザーインタフェースの議論からだけではない。マーケティング分野からの影響も大きい。それは「経験経済 脱コモディティ化のマーケティング戦略」の影響である。

ここで言っている話は、道具を触ったときにに発生する体験現象ではなく、スターバックスでコーヒーを飲むこと、アップルの製品を買うこと、といったマクロな経験を説明しており、本書で分けたレイヤーで言えば、社会レイヤ中心の話となっている。

こういったマーケティング方面からの流れがあるために、UIデザイナーが扱っていたUXと混沌していた時代があったと思う。デザイナーが上流工程から関わることが重要というのは、どちらかといえばこの経験経済の文脈においてといったほうがいいだろう。

なお、Takramの渡邉康太郎さんは、コンテクストデザイナーとして活動しており、このレイヤで言えば社会レイヤに当たる。Takramは日本では田川欣哉さんら創ったデザインエンジニア発祥企業でもあり、やはり彼らもテクノロジーとリベラルアーツの交差点にいる存在である。そして渡邉康太郎さんもまた慶應SFC出身である。

体験を中心にした設計にもさまざな視点があることから融けるデザインでは、主に現象レイヤを扱うことを宣言した。これによって、読者への期待を裏ぎぬよう、プリミティブなインタフェース設計論、自己帰属感の話の土台を用意した。

最近では、この社会レイヤ、文化レイヤあたりの研究活動もしているので、それは後の連載で紹介していきたいと思う。

次回は2章について振り返ってく。


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