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学生時代のぼくが焼き餃子と蒸し餃子を通じて学んだ「自由」の難しさ。

「自由に作ってごらん、みんなの好きなものでいいよ」

これは、ぼくが小学校から高校生までずっと嫌いだった言葉だ。

今もあるのか知らないが、小学校の時に図工という授業があった。図画工作の略だと先生は言っていたのを覚えている。のちのち、中学生になる頃には美術とか技術という授業に名前を変えて、しばらくのあいだ僕を悩ますことになった。

小学校2年生の時だったと思う。授業参観の日の教室の後ろに飾るために、図工の時間を使って紙粘土で作品をつくることがあった。家族に頼んで紙粘土をどっからか買ってきて、図工の時間を何度か使って教室でつくりあげる。ぼくはその時間がとても嫌いだった。

なぜか。まず紙粘土が嫌いだ。爪の間に挟まるし、手は白くなるし、ちょっと放置すると固まってもう修正できなくなる。紙粘土を使うひとの気が知れなかった。いまでもよく覚えている。そしてなによりも、その時間が始まったらときに先生から言われる一言がとても嫌だった。

「みんなそれぞれの好きな物を自由につくっていいよ。」

紙粘土で汚れる手や後から軌道修正できない不自由さよりも、その一言がとにかく嫌いだった。そしてその言葉を聞いてテンションが上がっている周りの友達をみて、とても自分が不甲斐なく感じたのを覚えている。

「自由にやっていいよ」と言われると、何をしていいのか、何がしたいのか、途端にわからなくなる。ぼくはそういうこどもだったと思う。結局、当時ハマっていたドラクエのゲームに出てくる「わたぼう」という、いかにも誰でも作れそうな小さくて簡単なものを紙粘土でつくって、ぼくは難を乗り超えた。授業参観の日、その「わたぼう」は周りの友達がつくった作品に埋もれながら、控えめに棚に飾られていた。先生は特に何も言ってこなかった。

中学生2年生になった頃、美術の授業があった。珍しいのかもしれないが、担任の先生の担当科目が美術だったこともあって、僕らの美術の授業は息抜きできないほど先生の気合が入っていた。ある日、絵具セットを家から持ってこいと言われ、みんなが持ってきた。そしてテストの代わりに絵を書きなさいと言いながら、女の子がボーッと机に肘をついている様子が印刷された白い紙を先生は全員に配った。そして先生は次の瞬間こう言った。

「この絵を好きなように書き足していきなさい。」

悪夢の再来だ。好きなように描けと言われると途端に何もできなくなってしまう。結局ぼくはその後数回分の美術の授業を「何を描くか考える」という行為に費やし、最終的にはその白い紙を真っ黒く塗り潰した。写っていた女の子が寂しそうで悩んでいるように見えたので、その心の中を表したつもりだった。自分的にはかなりの熟考の末、シンプルかつクリエイティブに表現したつもりだった。しかし先生からはこっぴどく怒られた。怒るほどの理由は今でもよくわかっていないが、サボっているように見えたのかもしれない。この時期になっても、ぼくは相変わらず「自由にしていいよ」の言葉の前では弱かった。そして相変わらず図工系の科目の通知表はパッすることのないまま高校生になった。

高校1年生になって、私立の学校に通った。キリスト教系の学校で、自由/自律/民主といった言葉を大事にしている学校だった。制服もなくて、みんな毎日好きな服で登校し、大した校則もなかった。ちょっと垢抜けた僕は、そんな自由な校風の中でのびのびと学生生活を送りはじめていた。しかしそんな学校にも天敵がいた。家庭科の授業だ。

家庭科の授業というのは数ある科目の中でも特に面白くないと思っていた。針の縫い方とか、すき焼きをつくるときのみりんと醤油の割合は何対何だとか、東京と大阪では敷金と礼金に関する考え方が違うとか、高校生の僕にとっては本当にどうでも良いことのオンパレードだった。(今となっては、そこには深い学びがあったと心から思っている)

だから僕は毎回の家庭科の授業、爆睡していた。席替えで最前列になろうがなんだろうが、ともかく爆睡していた。小テストの時間に爆睡したせいで解答用紙がよだれまみれになって記入不可になったという事件もあった。それくらい本当にやる気が湧いてこない授業だった。そんな僕をみて、先生は毎回怒鳴っていた。寝た回数×マイナス10点という先生の独自基準を知ったのは、期末テストでほぼ全問正解なのに点数がマイナス40点を付けられた時だった。

ところがある日、そんな家庭科の授業で空前絶後のおもしろイベントがやってきた。調理実習だ。今回のテーマは中華料理。クラスのみんなが6人1グループくらいに分かれて、焼き餃子と白いご飯を作るというものだった。大体の材料は先生が用意してくれるので、僕たちはエプロンとお米を1合持参するスタイルだった。とにかく楽しみでしかたなかった。あのやる気が湧かない家庭科の授業で教室から出てみんなでご飯を食べれるなんて。そう思って当日を迎えた。

まず、エプロンを忘れた。

教室に入る時に先生はドアの前で1人1人チェックして、僕のがエプロンを持っていないことを確認すると「はい中島、マイナス50点」と得意げに宣告してきた。もはや数字の感覚が麻痺しているので、僕にはなんてことなかった。この先待っている焼き餃子をみんなで楽しく食べることさえできれば。そして調理実習が始まった。

調理器具を並べ、持ち寄ったお米を洗い、餃子のタネになる材料を下ごしらえする。そしてご飯を炊飯器で焚き、餃子を焼く。実にシンプルな内容だった。各グループとも順調に進める。途中、校庭に有名な女子アナが取材でやってきて、それを窓から覗いたり携帯で写真をとった人はマイナス20点されるというハプニングもあったが、とりあえず焼き餃子の準備そのものは順調に進んだ。餃子のタネを作り、炊飯器のボタンをポチッとする。炊飯器から水蒸気がモクモクと出てきた。そしてその瞬間、僕は閃いた。

「この水蒸気で蒸し餃子作れるやん。焼き餃子と蒸し餃子両方食べれるやん。」

つまり、餃子のタネを混ぜるのに使った銀のボウルを炊飯器の水蒸気が出てくるところにカポッと被せれば、その水蒸気で蒸し餃子も同時に調理できるのではないかということだ。すぐさまグループのみんなと話して、早速それを実行することになった。そして僕らのグループは無事に焼き餃子と蒸し餃子と白いご飯を完成させた。われながら、もの凄いクリエイティブだったと思っていた。

そして全員のご飯が揃ったころ、先生が各テーブルを巡回し、点数を付けていった。一体、餃子を作るだけなのにどんな基準で点数を付けているのか気になったが、もはや蒸し餃子と焼き餃子の両方をみんなで食べれる僕にとっては本当にどうでもよかった。そして先生は僕らのテーブルの前でこう言った。

「はい、この班はマイナス50点やな。言われたもん作ってへんから。」

なぜだ。焼き餃子と白いご飯はきちんと作った。そしてそのうえに蒸し餃子まで作った。なにがダメなのか全く理解できなかった。与えられたミッションをクリアした上で自由に羽ばたいたはずなのに。怒り狂いそうになったが、もう餃子も食べれるのでまあいいやと思い、結局そのまま年末までそんな様子で家庭科の授業を過ごした。

1年の最後の期末テストの時期、テストをうける前の僕の点数はマイナス260点だと、担任の先生と家庭科の先生に呼び出され、挙げ句の果てに保護者まで学校に呼びつけられ延々と怒られた。期末テストで90点以上とったらチャラにしてくれるというので仕方なく勉強してその点数をとり、チャラにはしてもらった。

小学校の図工、中学の美術の時間を通じて、自由の前では何もできなくなる自分に出会った。そして高校になったら、与えられたものを満たした上で自分なりの自由を表現してみた。結局どれも怒られてばかりだった。でも、どれも後悔していない。むしろ、それぞれの先生や体験からは、とても大切なことを学んだと思っている。

自由とは自分の心の中にしか存在しない。他人にその存在を強要することはできない。そして、生きていれば自由は誰かによって潰されてしまいそうになることもある。自由とエゴとは常に表裏一体だということだ。

自由、自律を掲げる学校だったが、たくさんの優しい先生と素晴らしい友人に支えられ、それを存分に学んで卒業させてもらったと思う。

(後日談だが、高校の家庭科の先生はとても優しかった。みんなの前ではこっぴどく僕を怒っていたが、担任の先生と僕を呼び出して面談をするときは、かならず僕の意見も尊重してくれた。蒸し餃子なんて誰も考えたことなかったとか、寝てるが大事な話は必ず聞いているとか、困ってる友達も助けているとか、そういうところも必ず褒めてくれた。そして最後にただ一言「社会の中では、いつも自分の自由が尊重されるわけではない。それだけは覚えていて欲しい。」と優しく諭してくれた。あの先生は元気にしているのだろうか。今度会いにいってみようかな。)

今回は以上です。前回の定期購読者向け記事につづき、学生時代ネタを書いてみました。気になる方はこちらもどうぞ。


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