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# 217_ふりかえりテキストver2+i

知の生成と流通の現場としての展覧会

 ここでは、私が中心となって企画運営した「“現実”の自給自足展」*1という展覧会について紹介したいと思います。

 本展は2022年の2月に中目黒にあるN&A Art SITEというギャラリーで開催されました。本展の趣旨について、開催に際して私が書いたステートメントを読むことで考えてみましょう。

“現実”の自給自足展
Design Alternative Realities

 個別の現実を生起するためのデザイン――。目が見えづらくなっても様々な支援技術を組み合わせたり、他者とのコミュニケーションを粘り強く工夫し続けたりすることで、自らの仕事や生活を構築すること。自らが向き合わざるを得ないことに対してメディアテクノロジーの私的な造形を通じて考えること。カメラやレコーダーを持って散歩をし、新たな都市の見立てを発見し記録すること。また、それを服や空間そして音楽の制作に応用すること。デザインリサーチや社会学の専門化された技法をいち生活者として実践し、複雑な課題に寄り添い続けること。
 本展では、このような実践やそれによって生まれた制作物を扱い、企画運営者である島影自身がその実践者と戯れながらワークショップ、公開インタビュー、上映会などを通じてその知や方法論を社会にひらいていく。それによって私たちの「“現実”の自給率」が上がることを願って。

 まさにこのステートメントにあるように、私自身が、当事者兼つくり手の側面を感じるという人や、本展で扱っているテーマや手法自体についてその人の角度から一緒に考えたいという人にお声がけしできあがった展覧会になっています。
 また、基本的に展覧会会場を公開収録スタジオに見立て、会場に訪れた人が目の前でそれを観ることができると同時に、そこで記録されたものが映像、ポッドキャスト、写真、テキストなどの形で即興的に編集され流通するという形式をとっています。

公開インタビュー「情報工学“研究”の民主化」

 また、10日間の会期中に即興的に編集したものを空間に反映させていき、展覧会が始まったときから、最期にかけて、空間が変わっていくような流動的な展示になっていました。展覧会に、完全にできあがった作品をディスプレイして、それを発表するという展覧会の使い方ではない使い方。展覧会の会場そのものが知が生成される現場であり、その知が編集され、その現場に居合わせなかった人が後日アクセスできる知の棚、そのアーキテクチャ自体も平行して建設されるという、展覧会の会場それ自体を徹底的に実践の現場として扱う「カオスが発生する場」として設計しました。
 この意図は、まさに本来、そのつくり手が完全な作品を発表するときには見えなくなっている部分、その手前の彼らの日常的実践部分に焦点を当てる。そしてそこにすでに知が存在しているとしたときに、それに形を与え、共有できるような形式を追求していった結果としてこのようなカオスな展覧会になりました。

非公開ワークショプ「サンポマスター」

 たとえば、公開インタビューであれば、普段、私がそのつくり手と打ち合わせしたりお茶したり呑んだりしているときの延長の仕草であり、でもその日常性は日常の中だと、まさに日常なので隠れてしまうわけです。そこで、その日常性をなるべくそのまま他者が触れられるようにする。その背景として展覧会を使ってみる。
 具体的に、その背景の要素としては、まず大きく空間があるでしょう。「“現実”の自給自足」というテーマとともに立ち上がったそれについて考える空間であり、出演者がそこに入ればそれらは舞台美術になる。そして、そこにカメラやレコーダーなどの記録装置があり、それらによって撮られ即興的に編集されたであろう記録が映し出されているモニターがある。また催しの過程で生成されたドローイングや素材がある。先に触れたように、この会場自体が実践、その記録、そして流通の現場になっているということ。

公開対話「翻訳するからだ」

 次の要素として、催しの企画の設定や、その全てにホストとして関わる私が、なるべく出演者の日常性そのままを共有してもらうように関わる。その空気を徹底的につくる。それによって、本来、他者に共有することが難しい、実践の身体知を顕在化させ、触れることができるようにする。ですので、まさに本展では、展覧会という形式を、そういった実践の身体知を扱えるようにできるかもしれない特殊なフォーマットとして捉え、それを徹底的に実験してみていると見てもよいでしょう。


呼吸をするように記録を録る

 出演者であった落合陽一さんは本展の公開インタビューの中で、次のように述べています。

「今日、ぼく、この展示観ての一言の感想とすれば、映像というのは随分安いコストでつくれるようなるんですねぇというところかな……やっぱり。ウォーホールでいうキャンベルスープみたいな映像があっていい感じでしたね。呼吸するように無駄に映像が撮れないと、それをやらないだろうな、みたいな人類って感じ。そこがけっこう個人的にはおもしろかったですね」

非公開インタビュー「Necoverse, Nawaverse, Shimaverse」

 本展では、私が会場で出演者と催しを立ち上げるとともに、映像作家の岩永賢治がそれを記録するという体制をとりました。私と岩永の協働には一定の歴史があり、今までも様々な実験をくりかえしていて、本展の試みもその実験のひとつとして捉えられるでしょう。
 実際の商業映画などの制作経験があるわけではないので、このメタファが正しいか怪しいのですが、私にとって、知の生成とそれを置く棚のアーキテクチャの構築が平行して行なわれる展覧会の現場というのは、感覚として、映画の撮影現場に入っているような感覚なのです。
 そして一定期間、そのカオスの中に身を投じる。企画の主旨、集まる人、集まる場所や時間は決まっているわけですが、はじまったらあとは即興でなにがどう展開するか分からない。その即興で立ち上がった時空間を記録する。私と岩永は、現場で、記録をどう空間に反映させるか、またウェブ上のアーカイブサイトにどう反映させるかを話し合い、その場でそれを実行していく。つまり平行して編集の方針が検討される。そして映画の撮影期間としての会期が終わる。怒濤の日々がいったん落ち着く。
 それから、落合さんの言葉を借りるなら、「呼吸するように撮られた」映像、音声、写真の記録をサーバーに構造を与えながらアップロードし、私と岩永を中心にそれが共有されながら、本展の企画運営者、出演者などの関係者に共有される。

公開ワークショップ「SFドローイング&ライティング」

 会期終了後は、また映画のメタファでいうところの、編集の時期に入る。そして現段階の編集物は「なるべく編集しない編集」という方針で編集されたものがウェブ上のアーカイブサイトに上げられている。具体的には公開インタビューでは、なるべくカットをせず、音声が聴き取りづらいところを、別マイクレコーダーで録っていたもので補完するなど、最低限の後処理したものがアップされている。ライブパフォーマンスなどの会場の空間全体を扱うものや、屋外での実践など、様々な要素が複雑に入り込むタイプの催しに関しては、個別に編集方針を決め、それがアップされている。
 つまり、現段階の編集物というのは、撮影後のなるべく生の素材が視聴物としてウェブ上に置かれているような感覚に近いでしょう。また映画のメタファを使うなら、上映会という形式で視聴されることを前提とした長さ、その時間を流れるストーリー、そこから使われる素材、使われない素材が取捨選択され、シークエンス上に並べられていく、その手前の、監督や編集者が撮られた素材と対峙する時の「その素材」に近いものが現在、ウェブ上にアップされていると促えられるかもしれません。
 そして、ある種、このテキストというのは、書籍に収められる文章という形式をとって、撮影現場での体験、記録された素材との対峙、それらを経た身体で編集されたもの、映画とは違う形式で出力されたもの、近い形式とすれば短い小説のような形で出力されたものと見ることができるかもしれません。

体験型インスタレーション「unbirthdays」

 落合さんの記録の限界費用がゼロに近付いたときのふるまいとして本展を見る視点は、今まで触れてきた本展の様式について考える糸口を与えてくれそうです。つまり、より個別の身体や、その身体が生きている個別の現実、そこに存在する知をどのように発見し、またそれに触れられるようにし、また他者に、生が伴った知として共有できるものにできるか。ちぐはぐな身体を対象にし、またそれを取り囲む社会自体が激しく変わっていく流動的な世界を前提とした、知の生成や流通の「拡張子.ars?」を本展では実践的に模索していたのかもしれません。
 記録の限界費用がゼロに近付いていく状態というのは、その拡張子の模索において重要な変数になっているでしょう。呼吸するように記録が録れる社会技術的環境とそれを扱える身体が前提となることで、多様な個別の身体が集まり、そこで即興的になにかが起こる、その一期一会的な再現不可能な状況を立ち上げることに振り切ることができる。なぜならば、呼吸するように記録ができることで、個別の身体とそこで起きる状況というのを、なるべく複雑なまま、そこに生が残っている状態を目指して記述することに投機することができるからです。


真に実験が可能な特異な空間

 そして、そういう意味で、いま一度、展覧会というのは、オルタナティブな知の生成と流通の形式として、実に可能性のあるものなのではないかと思います。
 展覧会の会期中、その空間が、仮設的一時的に真に実験が許される、特異な、しかし日常の延長線上にある踏み入れられる現実としての時空間になる。展覧会を企画運営するということは、まさにそのひとつひとつの現実の設定を、その特異な時空間を立ち上げるという目的に沿って、行なっていくことに他なりません。
 それは、ある種、現代美術を筆頭にアーティストがある世界観をそこで構築するために、そのキャンバスや器としての無としてホワイトキューブをつくること、またそこに至るまでの導線、日常とは違う世界観に入っていくための儀式としての美術館などの建築をしつらえるということ、それらを違う目的で、オルタナティブな方法で使ってみてしまうということかもしれません。
 つまり、我々が生きているこの世界に、生の技法としての知が、それが知として扱われ、その知が生成され流通させることを、当たり前であるとした、そういった原点、そこから引かれる基準線からなる世界というのが、ほとんど存在しない。だからそれを一時的に仮設的につくる。そのモデリングとレンダリングのときに、もっともプログラマティックなアプリケーションが展覧会の企画運営、ということなのです。

公開ワークショップ中に並行して展示空間のアップデートが行われる

 なので、あえて整理すると、この実践というのは、現代美術ではないということになります。あくまで、その分野や歴史が守ってきてくれたホワイトキューブという制度や空間を一時的に借してもらっているのです。
 また研究という観点からこの実践を見ると、科学実証主義的な立場からすれば、身体を固有の定義から逃避させようとする態度や再現性のない一回性へ向かっていく姿勢は、知の創出の方向として逆行しているし、逆に文化人類学などの社会科学の立場からすれば、記述が薄すぎる。そういう意味で、真っ当な研究の立場からすれば、この実践において定義している知というのは、知に値しないと思われます。でも、だからこそ取り組む必要性が、意味があるのです。
 そして、従来の主流の研究から見たときに、その実践における知が、知でないとされているときに、私がこれを知だと言い張っている根拠は、そこに粉れもなく確実におもしろさが存在しているからです。もっと端的にいうと、個別の現実を生きている人が目の前にいて、そしてやはりその人の日常的実践によって生成されるものや、その人から発せられる言葉がおもしろいと。そして、それはやはり日常で実践されているものなので、崇める対象ではなく、自分なりに真似したり、自己言及したりするときに使う対象であると。そうしたときに、やはりそれはまぎれもなく知で、またそういった生の伴った知は、やはり表現に近づく。がしかし大きな文脈における表現ではなく、あくまで等身大の表現であると。
 学問というのが、そもそも共同体で実践されるもので、またそれが歴史と未来という長い時間軸を持った活動であるとしたときに、端的には本展において知と言っている、その共同体がまだ少ないと。また同時にそれ自体が生まれたり存続したりすることが難しい様々な理由があるだけともいえそうです。
 としたときにやるべきは、そこに知があると、その感覚がある人たちで実践していくということだと私は考えています。それを通じて共同体をつくっていく。その手段として知の生成と流通の現場としての展覧会を使う。

公開インタビュー「辺境の教育」

 そもそも人間というのはちぐはぐな存在であるとし、またそもそも社会というものがものすごい速度で変化し流動化しているという、そういう状況の中で、いま現在における知の在り様をどのように設定し活動していくのかということは、今後も考えていく必要があることでしょう。私自身は、先に紹介した展覧会を別の仕方で使うという実践、その可能性を探求しながら、知の在り様という、やや大きいテーマについて引き続き考えていきたいと思っています。


アネマリー・モルの『ケアのロジック』を手がかりに

 ここまでは、“現実”の自給自足展というのを事例に、知の生成や流通の現場としての展覧会というものについて考えてきましたが、ここからは、本展で実施された個別の催しを紹介していき、より具体的な事例を通じて思考していこうと思います。
 と、その前に一冊の書籍を紹介しようと思います。人類学者で哲学者であるアネマリー・モルの『ケアのロジック——選択は患者のためになるか』という書籍です*2。この本は、本展の「多元的なデザイン」という公開インタビューに出演してくださった作業療法士の林園子さんが、本催しが終わった直後に、私に教えてくださったものです。
 怒濤の会期を終え、編集期に入り、ある程度ウェブ上のアーカイブサイトにアップする編集物ができあがってきたタイミングに、改めて本書を手に取り、読みはじめました。林さんは出演してくださった公開インタビューの最後に次のようにおっしゃっています。

「最後にお話することというと、そうですね、なんかまとめの言葉……。“現実”の自給自足、“現実”を自給自足するという営み自体が、ケアになるんじゃないかなと思います。そうですね、元気な人も、障害のあるなし関わらず、身近なものを手直しし続けていくこと、それは、最後はみんな死んでしまうかもしれないし、ネガティブなことなのかもしれないけど、それに向かってより善い作業に向かって手直しし続けていくこと、それを自分たちでやり続けることっていうのが、ケアにつながるんじゃないかなと思った一日でした。ありがとうございました」

 林さんがここでおっしゃってくださったことは、まさに私が本展を通して伝えたかったこと、問いとして提示したかったことを林さんの文脈、ケアの文脈で言葉にしてくれたものでした。ある程度、落ち着いて、展覧会で起きたことを改めてふりかえるときに、林さんが教えてくれたモルの『ケアのロジック』は、そのための新たな視点を私に与えてくれました。
 ここまで、私なりの言葉で実践のコンセプトを伝えることを試みてきましたが、そこにモルの『ケアのロジック』の視点を加えることで、これから紹介する催しの内容がまた違った角度から理解できるのではないかと考え、少し本書について紹介します。
 モルは本書にて「選択のロジック」と、モルが提示する「ケアのロジック」を対比させます。リベラルな社会において理想とされてきた自立した個人が自らの責任で自由に選択することができるということの限界、つまりそれが「善き生」のためのケアとときに衝突することを示し、別の方法としてケアのロジックを言語化します。
 モルはオランダにある大学病院の糖尿病外来におけるフィールドワークでの経験を中心にその言語化を行います。まず糖尿病は現在の医療では完治というのがありません。それは慢性の疾患として存在し、患者は一定の血糖値を保つために、自ら測定器を使ってそれを測り、インスリンの注射を自ら行なったり、食事や運動を調整したりと、日々手直しを行ない、病気と共にいる現実を生きています。そしてその日々の手直しは患者が一人で行なうのではなくチームで実行される。医師や看護師、家族や友人、職場の人などです。
 日々の手直しの中には、選択する瞬間のような切り離された領域は存在しません。その行為が善かったのか悪かったのかは事後的にしか判断できないことであるとして、善悪は含みこまれているものとして実践を促えています。
 モル的に言うと「ケアのロジックにおいて道徳的な核となる行為は、価値判断を行うことではなく、実践に従事することである。そこには一つの層しかない」です。より端的に言うと、できる限りを尽くしてやってみる、結果を確かめる、調整する、また試してみるということ。それは今ここでこの改善をすることは何を伴うことなのかを問い続けることです。
 そして本書の特徴は、モルの言うケアのロジックにおける「ロジック」とは、一般的な論理という意味合いよりも、スタイルや精神性スピリッツに近く、先に触れた糖尿病ケアの現場をフィールドワークの対象としながら、医療における問題だけに閉じず、現代における自由意志や自己責任までを批判の対象としている部分です。
 そして、最終章の最後には、読者にこのケアのロジックを様々な分野に「翻訳」することモルは求めます。つまり、ケアの「ロジック」として取り出すということは、他の分野やその現場におけるケアのロジックの実践がありうるということを射程に入れているということです。他の分野やその現場で、どうケアのロジックが描け、実践できうるのか、それ自体を模索することがモルのいうところの翻訳に値しそうです。
 そして、ここでは、林さんの先程の言葉を補助線に、日本における、私の周辺で起きている、デザインという現場でのケアのロジックの翻訳的実践の手始めのようなかたちで、“現実”の自給自足展の個々の事例を解説してみようと思います。
 ここではその文脈において紹介すべき事例を抜粋してお伝えします。


3Dプリンターで自助具をつくる

 まず、導入的に、先程から名前を挙げている林さんに出演してもらった「多元的なデザイン」というタイトルで開催した公開インタビューについて紹介します。

公開インタビュー「多元的なデザイン」

 ここでは、個別の現実を立ち上げる行為、それを支援する環境としてのデジタルファブリケーションの意味を考え、実践している方々と、またそれら実践をデザインの観点から言語化していただけるデザイン研究者の方に集まってもらい開催したものになっています。
 林さんがディレクターを務め、建築家の濱中直樹さんがファウンダーのファブラボ品川では、作業療法士の観点から、近代的なデザインを解体・再構築した、作業療法的なデザインの実践が行われています。具体的には、自助具を3Dプリンターでつくり、そのデータをオープンソース化したり、クリエイターと障害当事者が共に自助具をつくるハッカソンなどを実施されたりしています。
 ここにおけるデザインの前提には人間の身体像自体が多様でちぐはぐであること、またここでいう自助具によって可能になる「作業」が障害当事者当人の健康を生成する行為であることが挙げられるでしょう。近代デザインが対象にできなかった領域に焦点を当て、ある種の超人間中心主義、身体の多様性やその主観世界を前提とした新たなデザイン実践です。
 3Dプリンターによって個別の造形、個別の道具がつくれることも重要ですが、ファブの思想においては、その個別のものが、デジタルのデータとして、他者に共有され、再現・改造できることが重要でしょう。大量生産とは別の循環系、別のイデオロギー。これもまた新たなデザイン観によって理解が可能でしょう。
 本催しに出演したデザイン研究者の上平崇仁さんの話の中に、縁起観から見て、一般に言われる「デザインによる問題解決」の限界を説く内容のものがありました。つまり、人間が自らがデザインしたものによってデザインされるという観点に立ち戻ると、ある問題点をある解決策によって解決するという直線的な図式は幻であり、実際、そこにはより複雑な相関関係があるはずということです。たとえば、その解決策によって新たな問題が生まれるなどです。やや単純化してしまうと、思い通りにコントロールすることなどできないとも言えます。一方で、その世界観内において、身の回りの自らの生活世界を手直しして調整するという作業はできそうです。
 またそのような自分や身近な人というたった一人を対象とした手直しの実践、それによって生まれた生成物、ファブラボ品川でいえば、3Dプリンターでつくられた自助具。こういった生成物は、近代的なデザインとは異なるロジックで生まれたものであり、本来存在しえなかった人工物でしょう。そういった従来の意図とは異なる形で生まれたそれが、インターネットを通じて、他者が3Dプリントしたり、改変したりすることができる。そういった限界費用が低いことによって可能な多産によって「もしかしたら自分のためや身近なたった一人のためにつくったなにかが、似た身体性や課題感を持った誰かのものになるかもしれない」という、偶然性に身を任せるような投機的な行為が可能になる。そこには今までの直線的な解決の思考では対象化できなかった範囲でのクリエイションを成り立たせる可能性があるでしょう。
 これによって閉じた個別の現実を立ち上げるという行為が、他者と重なり合う、別々だけど共にすることができる時があるというような状態を生み出す。ただそれにはやはり今までとは異なる想像力を持った人を増やす必要があるでしょう。
 そう思うと、やはりファブラボ品川の活動は、そういった新たな想像力を持った人を増やす運動にも見えてきます。また今までとは異なる循環系を前提とした活動であることによって、新たな価値の循環やビジネスモデルの実験にも見えてくるのです。


問題解決からの撤退

 次に映画「Transition」の公開上映会と公開レクチャーという催しを紹介したいと思います。

公開上映会+公開レクチャー「Transition」

 「Transition」は映像エスノグラファーの大橋香奈さんとデザインリサーチャーの水野大二郎さんによる共同監督作品です。前半は映画の上映を行ない、後半はその映画制作のプロセスを対象にして書かれた論文*3を元にお二人からレクチャーをしてもらい、それを踏まえた質疑応答を行ないました。
 本プロジェクトでは、水野さんとそのご家族が経験された急速な人生移行、悲嘆と受容、回復に向かう過程を水野さん自身が日々スマートフォンのカメラで生活を記録し、日誌を書き、それを元に大橋さんが水野さんに対して毎週インタビューを行なうというプロセスを経て、映画が制作されました。またそのプロセス自体を研究対象に論文が執筆されています。
 レクチャー後の質疑応答で水野さんから「問題解決からの撤退」という言葉が出ます。水野さんは長年デザインリサーチャーとしての仕事に従事しており、とりわけ複雑で厄介な問題というものに対してデザインがどうありうるかについて様々な角度から考えてこられました。
 その水野さんがある意味生活者として市民として置かれた状況があまりにも複雑でままならない。その状況自体を研究者の立場から客観的に見て、その複雑な問題自体をなんらかの形で一発で解決するというのは不可能であるとして、その問題への異なる向き合い方への導入、手がかりとして「問題解決からの撤退」という言葉が生まれたのだと想像します。
 大橋さんと水野さんの本プロジェクトにおける実践は、ビジュアルエスノグラフィーやデザインリサーチという固有の生活世界を記述し表現することに適した研究手法を用いて、水野さん自身が自らが置かれている状況を客体化し、その現実を認識し触れられるものにすることで、その現実と共に生きることを可能にする。問題を解決するのではなく、その問題と寄り添い続ける手法を模索する「問題解決からの撤退」後の実践として見ることができそうです。
 また本プロジェクトにおいては、知を共有する場としての上映会によって、映画や研究によって客体化された固有の現実がなるべく複雑なまま他者に共有される。それによって水野さん一人の経験を異なる形で他者が経験し、質は異なるもののその生活世界の疑似経験者を増やす。それによって、その複雑な問題を一人で背負いきるのではなく、鑑賞者に「問い」という形で分散し、問題を社会化する。
 また水野さんはレクチャーの中で、主にサービスデザインなどで扱われるカスタマージャーニーマップの手法を応用し、自らの置かれた複雑な状況をダイアグラムの形で示したものを見せてくれました。これもまたデザインの言語を用いて、個人的で私的な問題を固有の身体から解放し社会化する実践に思えます。
 以上のように大橋さんと水野さんのプロジェクトを見ると、「問題解決からの撤退」以降における、ありうるかもしれないデザインやデザイナーの姿のオルタナティブが見えてきそうです。つまり、ひとつのありかたとして、今までデザインやデザイナーが対象にできなかった(しようとしてこなかった)あまりにも複雑な問題に対して、デザインリサーチやそれに隣接する社会学の手法を用いて、その問題の客体化を行なうことができるのかもしれない。そしてデザイナー自身がその問題と寄り添う。と同時に、表現と研究が交差する独自のメディアとその独自のプロトコルによって、その問題を「問い」として社会化する、というふるまいがありえるのではないかということです。
 難しすぎる問題と対峙しそれに対するどうしようもなさ、ある種の無力感を通過し、その上でなにかできることを模索する。今回でいえば、そのひとつとして産業や学問の中で成熟した方法論や、徹底的に一般化され普及したスマートフォンという道具を、それが本来持っている主流の目的とは違う目的で使う。このような二人のふるまいは、今までのデザインが取りこぼしてきた問題を対象化する上でのひとつの姿勢を教えてくれるものであります。  
 同時に目の前にあるアクチュアルな課題に対して、身の周りにあるもの、お二人でいえば、それは専門化された知であり、それらを組み合わせてどうにかこうにか試行するというのは、それらを生の伴った知として継承し実践して、またそこで分かったことを知として流通させているという意味で、真にアカデミックな応答に思えるのです。つまり制度の成熟によって、おざなりになってしまった学問における「生」の所在、それを復権させるそのひとつの方法としてもお二人の実践を見ることができるのではないかと思います。


複数の現実の融解

 次にダンサーでアーティストのAokidさん、都市音楽家の田中堅大さんによるライブパフォーマンスと公開インタビュー「University」を紹介します。

ライブパフォーマンス+公開インタビュー「University」

 この催しでは、まず、それぞれの身体表現や音楽による現実の立ち上げ方をソロで行なう。次にそれをふりかえりつつ次のデュオの作戦会議をし、デュオでパフォーマンスに挑む。またそれをふりかえりつつ、最後に会場全体を巻き込んだパフォーマンスの作戦会議を行い、それを決行する、という大きく三部構成の4〜5時間に渡る長時間の公開実験的な催しとなりました。             
 その場に居合わせた私の感覚としては、即興的なパフォーマンスの直後に、そのパフォーマンスのときになにを考えていたかをこれもまた即興的に言語化するその姿は、いわゆるレクチャーパフォーマンスを超えて、パフォーマンスを通じた真のレクチャー、彼らの身体的な知をひらく場となっていました。
 最初のそれぞれのパフォーマンスでは、それぞれの身体表現や音楽による現実の立ち上げ方を、段階的に丁寧に観せてくれました。二人に共通していたのは、最初はまだそれぞれのものではなかった空間が、パフォーマンス後には完全にそれぞれの空間になっていた点です。それぞれの仕方によって、圧倒的に空間を変容させる様が目の前で行われたのです。
 デュオにおいては、お互いがそれぞれの現実の立ち上げ方を知った上で、それをどう組み合わせ二人の新たな現実を立ち上げることができるかを実験するような形となりました。
 ここでは、本催し以前、過去に数回セッションを経験したことのある二人ですが、それぞれの現実を立ち上げるということを前提に、ある種、その別々の現実を共存させるという試みは、おそらく過去のセッションとはまた違う、非常に実験性の高いものになっていたと思います。ここでは、その個々の現実を組み合わせる、あるいは融解させるという試みが、まさにからだひとつでの身体表現と、空気の振動としての音や音楽という、よりプリミティブで感覚的な表現媒体で行われる。それによってそこにある難しさや葛藤それ自体が表出し、共有される感覚として表現になっていたことが非常に興味深い体験でした。
 もちろん、それが表現として成立すること自体は二人の技術の高さによって成り立っているとも考えられるのですが、「あの感覚」を私を含めた会場にいるほぼ全員が非言語的に共有できていたのは、身体表現と音楽というよりプリミティブな表現媒体によって実験されていたからと考えられそうです。
 最後の会場全体を巻き込んだパフォーマンスでは、各自各々が持ったスマートフォンで、せーので録音を開始し、五分程、会場近くを歩きまわり、各自自由に行動する。特定の音を追いかけたり、歯笛を吹いたり、店に入ってそこの音を録ったり……。そうしてまた会場に戻って、せーので録音を止め、またせーので各自のスマートフォンから再生して、会場内を歩きまわったり、会場のどこかに置いたりする。そして、それがある種の導入となって最後のAokidさんと田中さんのパフォーマンスが始まる。全員のスマートフォンから流れる雨音などが一斉に止まり、二階から、舞台となる一階にAokidさんが降りてくる。その瞬間を私はとても覚えていて、そのときの高揚感もまだからだに残っている。
 あの最後のアイディアはAokidさんが提案してくれたもので、どういう感じになるか分からないけど、とにかくやってみよう! となって実行したものでした。Aokidさんがどこまで想定していたのかは分からないのですが、歩いて音を集めてくる時間、その音を会場内に放つ時間、そして二人のライブパフォーマンス、その一連の体験全てがとても完成された時間でした。
 あるいは、Aokidさんと田中さんはもちろん、会場内で鑑賞していた全員の粘りによって生まれた集中力と緊張感によって、あの時空間が立ち上がったのかもしれません。そう考えると二人のライブパフォーマンスとトークは、クリエイションによって個別の現実が立ち上がることを前提に、そのばらばらなものがいかに共にいたりいなかったりできるのか、それを二人が軸になりながら会場にいる全員で実験しつづけていた。そういう時空間だったように思うのです。
 トークや会場からのコメントや質問からも多くの「メタファ」が出てきたように思います。これは特に二人はあるイメージを持って取り組んでいたり、即興で言葉をつくるためにやむをえずというものであったりするかもしれませんが、先に述べたように身体表現や音楽によってばらばらなものが共にいたりいなかったりする、その感覚を会場にいる全員が共有していた。だからその感覚を拠りどころに、それぞれがしっくりくるメタファで言葉をつくって議論していた。ばらばらなものが共にいたりいなかったりするということの周辺にある様々な問いが、それぞれのからだの中に発生していたのかもしれないとも思います。としたときに、いわゆる身体表現や音楽の文脈における、それの意味というよりも、曖昧すぎて本来容易には共有できないものを、感覚として共有し、その感覚を手がかりに議論する。その方法としての身体表現や音楽の可能性について考える契機にもなったように思います。 
 以上が展覧会における催しの事例の紹介でした。


社会の彫刻

 最後に、今後の展望に触れて締めくくりたいと思います。
 私たちの活動において重要なのは、今までのデザインでは射程に入らない複雑な問題を扱っていることを前提に、これを対象化しうるオルタナティブな方法を実践を通じて模索すること。またそれが持続可能で、実践されたものが積層されていくようなものとして、どのような事業のありかたがあるかということを検証し続けることです。
 オルタナティブであるということは、独自の評価軸を持って、それに準じて実践するということです。ゲームに乗らず、ややハードコアめな別のゲームを自作するということ。となると、実に原理的なところに戻っていってしまいますが、この問題意識に真に共感する人たちと、できることを共に実践していく他ないと考えます。
 そして、その中で循環系を描き、それを実際に回していく。書籍、映像、ポッドキャスト、テキスト、そういった形で生の技法としての知を流通させていく。そこで生まれた接点から、特定のローカルを対象に、その生の技法の持ち主とワークショップなどを通じて、より身体性を伴った形で知を伝える。場合によってはその人たちと一緒にプロジェクトを展開する。
 生の伴った知の生成と流通の現場としての展覧会を企画する。この複雑すぎる問題に対して思索する必要性があるということに共感する組織や人と協働して展覧会を企画運営する。場合によってはその過程で生成された作品に準ずるものを売買する。生成された知や作品のつくり手と受け手のより適切な関係性から独自のメディアプラットフォームを構築する。
 これら実践により、小さな循環系を回し、社会を彫刻する。その小さな社会の構成員がある種少数民族的に存在し生きていると同時に、その社会の存在自体が主流の社会システムに対して問いを放つ。
 とにかく、このような実践を続けていきたいと考えています。このテキストを読んだりアーカイブを観たりする中で心動く方がいましたら、ぜひこの社会を彫刻するプロジェクトの一員として、関わっていただけると幸いです。


  1. beta post, 楠見清, 荻原林太郎, 上平崇仁, 林園子, 濱中直樹, 津田和俊, ドミニク・チェン, 和田夏実, 清水淳子, 加藤淳, 菅野裕介, タカハシ ‘タカカーン’ セイジ, 山本千愛, 平尾修悟, 青山新, 東谷俊哉, 吉村佳純, Aokid, 田中堅大, 角田陽太, 金森香, 福田敏也, 秋山孝幸, 梶谷真司, 落合陽一, 南條史生, 水野大二郎, 大橋香奈, 内田聖良, 大野睦昌. "現実"の自給自足展. N&A Art SITE. 島影圭佑, 小林空, 村山雄太, 岩永賢治, 加藤泰生, 堀川祥子, 森屋充正, 京都工芸繊維大学 KYOTO Design Lab, エヌ・アンド・エー株式会社, エイベックス・ビジネス・ディベロップメント株式会社, D/C/F/A. 2022年2月14日-2022年2月24日

  2. アネマリー・モル. 田口陽子, 浜田明範. ケアのロジック——選択は患者のためになるか. 水声社. 2020年

  3. Kana Ohashi, Daijiro Mizuno, ‘Visualising Rapid Life Transitions: Ethnographic Documentary Filmmaking Through Smartphone-Based Collaborative Research’, “Visual Ethnography”, Vol.10, No.2, pp.49-65, 2021. 


2023-03-06_更新


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