自分は自分でない、それ故に自分と呼ぶのだ
こんにちわ、きっぺーです。
毎年恒例の親戚同士での新年会、今年はリフォームした実家で皆集まり、和気あいあいとした買いをした。
その新年会はいつも、何故かうちはまるで「意見交換会」のような話になってしまうことが恒例で、案の定今年も非常に熱い議論をした一日だった。
紀平家の歴史、ひい爺さんの話、沖縄が日本のルーツ説、教育現場について、今の時代の生き方などなど・・・
多分、他の家族が見たら「え?新年始まってそんな難しいことばっか話していて面白いの?」と、平気で言われるような内容ばかりだったが、逆に僕らはこれが当たり前だったので、むしろ面白い(笑)
そんな中で、僕の父が話した「即非の論理」がとても難解で、しかし奥深い内容だったので、これを今回noteにしたいと思う。
かなり哲学的な内容なので、皆さんにもぜひ考えてほしい内容である。
即非の論理とは
即非の論理とは、「金剛般若経」というお経の中の一説にある
「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」
から来たものである。
要約として「般若波羅密は般若波羅密であらず、即ちこれを般若波羅密と名付ける」ということなのである。
簡単に言うと、「AはAあらず、それ故にこれをAと名付ける」という意味である。
・・・は?
って、ほとんどの方は思うかもしれない(笑)
「A=B、B=C、故にA=C」というものが基本となっている世界で、即非の論理を提示するとわけがわからなくなる。
「A=B、B=C、故にA=C」の考え方は理系的な考え方で、答えが確実に存在する。
しかし「AはAあらず、それ故にこれをAと呼ぶ」は、正解が確実なものでないが、そこに価値があるというものだ。
例えば「山は山であらず、それ故にこれを山を名付ける」とする。
これは、山という実体をどのように定義するかの議論になる。
山の一部を削ってバケツに入れた場合、それを山と呼ぶことはできない。一部を削られて元の形がなくても、山と呼ぶ。しかし更に削られていくと、いずれ山と呼ばれなくなる。
この判断の境界戦は一体どこにあるのだろうか?
このように考えると、山という実体自体が存在しないことになってしまうのだ。
だが山を抽象化できなければ、僕らは山について思考できなくなる。
それ故に、僕らはそれを山を呼ぶことにしている、ということなのだ。
これは僕らが持つ概念すべてに言えることで、自分という概念にも言えることなのである。
「きっぺーはきっぺーあらず、それ故にきっぺーをきっぺーと名付ける」
きっぺー、という名前はあくまでも僕を表す抽象的概念であって、僕が僕であることを証明することはできない。
そもそも僕自身をきっぺーと定義する方法は何か?
これを説明することはできないので、僕をきっぺーと名付けることによって思考ができるようになるのだ。
つまり
うん、なにがいいたいかわかんなくなった(笑)
無意識の意識とかに近いものかな。
しかしこの即非の論理を知っておくことで、改めて自分とは?と考えるとてもよいきっかけとなったのは間違いないので、今回noteにしてみた。
おそらくこの即非の論理は一生かけても、何世代かけても解決することのない考え方ではあるが、しかし自分を見返すときに大きな意味を持つものなのかもしれない
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