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創業逸話(社内メンバー向けの記事)

今日は社内メンバー向けの記事を紹介します。
弊社に入社頂くメンバーに向けて、近藤がどんな人間なのか、何で起業したのか、何度も死にかけたからこそ絶対に成し遂げたいこと。
このあたりを自己紹介代わりに作っていました。
本来は外部に公開するようなお話ではないですが、作文程度に読んで頂けると幸いです。

【代表自己紹介】
岡山県出身
地元の小学校、国立中学校、県立高校を卒業し、立命館大学経営学部に入学。2011年卒。
専攻はブランドマーケティングとベンチャービジネス(アントレプレナーシップ)
ベンチャー教育を中心に受け、同じ教授から学んだ先輩や後輩と東京で同窓会をすると7割以上が経営者(個人事業主含む)のような環境で過ごしている。
趣味:野球観戦(阪神ファン)、お酒、食べ歩き、車、時計
好きな言葉:人事はロジック。最後は気持ち。

■起業のキッカケと背景
人生で3回くらい死にかけました。冗談ではなくガチです。
3回目(自宅水没)の時に「まだ死ねない」「やりたいことをやり切ってない」水没する自宅で起業することを決めました。
・本気でお客様第一を実現する。お金は二の次。
・プライベートでも、子供の頃からの夢などを全て実現する。

3回死にかけたけど、実際には死ななかった。ラッキーだと本気で思ってます。
生きることが出来てるラッキーな人生だからこそ、本当は死んだものだと思って、仕事もプライベートもやりたいことを本気で意志を貫いてやっていきたいと思いました。
やるならとことん。お客様第一も本気で、これだけ考えてやっていきたい。
プライベートも言い訳しないで、とにかく自分の夢を実現し続ける。
シンプルに、前向きに、論理的に、最後は気持ちで、正しいことを正しくやっていきたい。というのが根底にあるんだなと思ってます。

■私の経歴と創業の背景
【新卒】
大学卒業後、フィールズ株式会社に入社しました。ざっくり説明をすると、最大手のパチンコ商社です。
そこで配属されたのがシンクタンク部門で、マンガやアニメなどIPと呼ばれるものの研究を行う部門でした。
私は手塚治虫マンガの研究チームにアサインされ、ほぼ全ての手塚作品を読みました。
また、手塚作品を点数化(失礼な話ですが)し、現代にリメイクさせるに最も適した作品を抽出していました。※いま実際にリメイクされています
その際にいつも言われていたのが「お前の意見は聞いてない」「ファクトを持ってこい」と言われ続けていました。
上場企業なので書けない内容ではありますが、いま考えれば色々と考えることはあります、、、笑
ただ、私はそれを全く恨んでおらず、バカで何もできなかった私に対して、常に真正面から叱ってくれ、指導してくれた上司に対しては今は非常に感謝しています。
おかげ様で、一般人程度には思考するスタンスが身に付きました。
とはいえ、私がやりたかった仕事は研究ではありませんでした。研究という仕事だと成果が見えるのが数年先、もしくは10年以上後かもしれません。
ベンチャービジネスを学んでいた身として、早く成果を出せる環境に行きたいと考えていました。

【はじめての転職】
その後、友人の紹介でスタートアップにジョインしました。(正確には外資系企業の日本法人立ち上げにジョイン。日本法人は社長1名のみで私が一人目の社員)
その際、代表がフロント業務(売上を上げる仕事/営業など)だけでなく、日々の細かい経理まで一人でやっていました。
私は営業専任で入りましたが、営業だけでなく、マーケ、商品企画、商品開発、製造管理、原価管理、人事、総務などの業務を巻き取っていきました。
この時、事業を伸ばすのに関係がないノンコア業務を責任者クラスがやる必要があるのか、という点に大きな疑問を感じました。
シンプルに、数名体制のスタートアップであれば、売上や利益を確保するため、全員が事業拡大に必死になって取り組んだ方が良いなと感じました。
また、その際、ノンコア業務は外部の方を含めた専門家に依頼した方が効率が良いと感じていました。
必死になっても、売上や利益が出せずに倒産する会社が圧倒的に多い中で、ノンコア業務に取り組んでいる時間は絶対に無駄だと思っていました。
もっと、もっと、事業を爆速で成長させて、売上や利益を出して、企業が成し遂げたいことだけにフォーカスできるような世の中になれば良いのに。こんな雑務がなくなれば良いのに。と思っていました。
そんな悩みを感じながらも、営業専任として大手企業との契約を多く獲得していきました。
ただ、日本特有の決済の遅さがあり、納品までに時間を取られました。結果、契約から入金までに多大な時間がかかりました。
本国から「日本はビジネスのスピードが遅い」と言われ、日本法人への送金が止まりました。
つまり、私の給与や経費を払うお金が日本法人になく、給与と経費の支払い遅れや未払いが発生していました。
また、年収を150万円以上ダウン(新卒の年収からダウンなので結構辛かった)して入社していたため、入金の遅れが生活維持をするにあたって致命的なダメージでした。
生活を維持するため、週末を使って副業を始めました。それが面接代行でした。
平日は本業(外資系スタートアップ)、週末は副業(面接代行)という生活を続けていました。
これがHR領域で仕事をした初めての経験です。
 
【HR領域にドップリ浸かっていく】
外資系企業の日本撤退が決まりました。すなわち解雇です。
クレジットカードは上限一杯。現金もほとんどない。日々の生活が危うい中で、いま自分に残された仕事は採用だけでした。
もちろん、採用の経験は数か月(しかも週2日の副業レベル)しかないため、採用コンサルや代行の仕事は貰えませんでした。
しかし、スタートアップで多種多様な経験があったことから、新規事業領域の営業、マーケティングなどの仕事をもらうことができました。
そして、その仕事をくれた会社で採用の一部を手伝うということができました。
採用の実績を徐々に積むことができたことは非常に良い経験でした。
 
【なりふり構わず採用していた時期】
とある企業から「全国に支店を出したいので、地方採用をしたい」という話を頂きました。
なぜ私に話が来たのか、課題を聞いてみると、当時一番強いと言われていた超大手の採用媒体に最大限の課金をしたにも関わらず、地方は応募者が1名しか来ないとのことでした。
(東京は同じ求人でもたくさん応募が来ていたが、更に採用コストを下げたい思惑もあった)
5名で支店を立ち上げるのに、1名の応募。採用単価は上げられません。媒体でも応募がありません。
「さて、どうやったら支店を立ち上げれると思います?」
力業で何とかしてほしいという無茶ぶり案件でした。
世にある人材サービスが使えない以上、直接人と繋がる方法を探るしかありませんでした。
当時もSNSはありましたが、採用に活かすといった使い方をしている人は稀でしたし、依頼されたポジションはITリテラシーが決して高くない方が中心だったので、物理的に人と繋がる方法を考える必要がありました。
結果、街中でナンパをしていました。1日中。10時間くらいオフィス街を歩き、ずっと人に声をかけ続けました。
時には車屋、家電量販店、保険屋、アパレルショップなど、クライアントに雰囲気がマッチしそうな方であればすぐに声をかけに飛び込みました。
こんな仕事を1年以上やりました。
東京ではこの方式で月4〜5名程度をコンスタントに採用。
地方では2週間の出張で5名を採用していました。(7-8か所くらい地方は回りました)
気が付けば、1か月の間で東京にいる日は3〜5日くらい。ということもありました。
1年中、全国を飛び回って営業マンをナンパで採用していく日々を続けました。
もう何千人に声をかけたか覚えていませんが、人を口説く能力はここで培われました。
全く知らない人に会って5分でご飯の約束を取り付け、1時間程度のご飯の中で、スキルチェックと転職意志のない人から転職意志を勝ち取る。即座に最終面接をセットして、早ければ声掛けから内定承諾まで2日で行っていました。
どこで声をかければ採用につながるか。マーケティングもしましたし、裏側ではデータ分析も緻密に行いました。
地方ではどこで声を掛けるかを事前にプランニングしないと、絶対に成功しません。
そのためのプランニング(戦略策定)には丸1日以上かけていました。
また、バックアッププランも複数準備していました。行ったことない都市での採用計画は戦略通りには動きません。
なので、常にバックアッププランを作り、瞬時にPDCAを回しながら限られた時間内で採用をしていました。
この時に、採用戦略策定、未来を予測したバックアッププランの準備、実行、改善までの一連の能力が身に付きました。
クライアントから「先手先手と仕事をしてくれて助かっています」と言われるのは、自分自身の実体験から、先読みすることができるようになっていることが大きいと思っています。
この時、採用だけでなく、労務や総務の仕事をかなりサポートしていました。
経営者のノンコア業務以外も取り除けるスキルを徐々に習得することができていきました。
 
【変革期】
採用を初めて2年程度。社会人でいうと4年目くらい。
周りでIT界隈に就職(転職)した友人と飲む機会が増えました。
これまで現金商売ばかり経験していた私からすると、衝撃でした。
・PDCAがとにかく早い。WEBという仮想の状況かつ不確実な状況で突き進み、PDCAを回す
・データが出てくるのが早い。現金商売の10倍以上PDCAを回すことが早くなる。
・投資を初めて知りました。投資で会社を大きくして、後で回収するというモデルには当時かなり驚きを受けました。
 
そのタイミングから、PHPも知らないの?JavaとJSの違い分からんとかヤバいよ。
そのようにバカにされ、悔しかったので先輩後輩関係なく色んな人に教えてもらいました。
知らない人が悪い。と私は思うタイプなので、知っている人から何でも学ぶという姿勢は昔からずっと変わっていません。知識を持っているものが強者。持たぬ者は弱者です。
 
こういった繋がりもあり、HRテックの会社でも仕事をさせて頂きました。
ITリテラシーが皆無だった私をPMに据え、インターン生10名以上のマネジメントを任せ、プロジェクトを推進させて頂きました。
とにかくPDCAが早い。自分のペースが遅すぎる。ITツールを知らない。知らなさ過ぎて効率化が全然できない。とにかく、辛かった。という記憶しかないです。
やっていた業務は「職務経歴書を自動で作成する」というプロジェクトでした。
転職希望者の負担を少しでも取り除く、かつ、書類選考通過率の高いレジュメを高速で作成することがミッションでした。
最初は作成もしましたが、徐々に仕組み作りを専任するようになり、インターン生が40歳過ぎの転職者の職務経歴書を完璧に作成できるまでにしました。(弊社作成の書類選考通過率は媒体平均の2倍でした)
そこでは数千名の職務経歴書をチェックしていたので、業界や職種ごとのスキルの特性も覚えました。その経験を活かせる転職先の情報も把握しました。
また、そこでフロントエンドとサーバーサイドの違いも覚えました。テック企業で仕事をしていなければ、未だにとんでもないIT音痴だったかもしれません。
 
・IT業界水準で高速でPDCAを回すこと
・ITツールを使いこなすこと
・ITによって何ができるか(bot化、データ抽出など)を理解したこと
・プロジェクトマネジメントができたこと
・採用界隈の情報がレジュメ数千枚の作成経験から分かったこと
この辺りのスキルが補強され、かなり採用能力がアップしました。
 
【拡大期①】
自分で出来ることが増えました。
・営業
・マーケティング
・新規事業
・マネジメント
・採用
採用領域で新規事業を作れば、イケそう!という感覚を強く持っていました。
クライアントも徐々に増えるものの、担当者に会ってからの成約率は非常に悪いものでした。
「なぜ近藤に採用を任せるのか」「その知識はどの会社で付けたのか?」など、事細かに質問責めに会いました。
元パチ屋。その後は外資の立ち上げ。HRを専門でやったことのない人間を業務委託といえど使いたくない企業の気持ちはよく分かりました。
ただ、私が担当したクライアントのほとんどが採用成功していました。
つまり、ある程度のスキルはある。コンサルティング能力もある程度ある。
なので、後は「信用力」があれば、何とかなる。
ということで、水戸黄門の印籠をもらおうと、リクルートに入社しました。
背景として「元リクルートなんです」というだけで、それ以上のスキルチェックをされない営業を多数見てきました。
こんなに看板が使えるんだ!それならリクルートに行こう!箔をつけて営業しよう!
ということでリクルートに意志決定しました。
ちなみに、新卒の時、外資に転職する時、どちらもリクルートに落ちてます笑
この時は、過去の経験から下準備をバッチリしていきました。
後で聞きましたが、ギリギリラインで合格だったようですが、本当に助かりました。
 
【リクルート時代】
リクルート住まいカンパニーの注文住宅領域に配属。リクルートは中小企業向けの営業が中心で、営業研修も中小企業を担当しているグループで受けていました。
研修中のレポートや業務遂行をみたマネージャーから「お前、中小の社長とケンカしそうやな。中小企業の社長はデータだけでは動かないよ」と何度も言われてました。
ただ、データを駆使する大手向けの営業部隊は、注文住宅領域に詳しい百戦錬磨の営業メンバーばかり。
「異動だよ。と呼ばれたとしても、配属地域が変わるだけで大手担当に行くことはない。異動の内示が出たら地方確定だよ。」と言われていました。
どっちにしても、中小企業向けの営業で頑張るしかない。と心に誓いました。
研修終了日、その日が偶然にも異動の内示発表と重なっていました。
内示期間で呼び出されれば地方。東京にいたいな。と思ったら、声がかかりました。
「あ~。地方か。」と思いながら、マネージャーとMTGルームへ。
マネージャーから「異動ね」と伝えられ、内示が読まれました。
どうせなら中途半端な場所じゃなくて、北海道か福岡みたいにご飯が美味しいところ!と思っていました。
そうしたらマネージャーから「大手企業担当のグループへ異動」と言われて驚きました。
良く言えば「抜擢人事」です。業界未経験の人間を、大手企業の広告担当者の営業につける。私の前任者はベテランの営業経験者。そこから素人が仕事を引き継ぐ。
3カ月の研修は中小企業向けの内容ばかり。
大手向けは商品も違う。提案方法も何もかも違う。という状況でした。
悪く言えば「中小企業向けに営業しても成果出なさそうだから、大手に言ってもらおう。データは多少扱えるから、そっちの方がマシかも。なんて思われていたのだと今になって思います。
結果、大手営業でボコボコにされて全く売れない屍となりました。笑
そこでのマネージャーから言われた一言は今でも大切に思っています。
「近藤はクライアントを見ていない。クライアントをしっかり見なさい」
「リクルートの人が起業して成功するのは、スキルが高いからだけじゃない。クライアントと向き合うスタンスがしっかりしているんだ」
ここから「クライアントに向き合う」が仕事をしていくうえでの一番のテーマになりました。
スキルはある。これは廃れない。いつでも発揮できる。スタンスは日々、心を鬼にしてでも逃げたらダメだということ。クライアントから目を離さない。クライアントの希望を実現するために、スキルと知識を駆使して仕事をしていくと決めました。
今でも「クライアントに貢献してくれれば良い」「クライアントは満足している?喜んでる?」それを口癖のように言っています。
 
【その後】
リクルートで本気で死にかけ、仕事を辞めました。
本当に何も成し遂げないまま辞めました。マネージャー含め、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
失業手当だけでは、お金も尽きてしまうので、実家(岡山)に帰りました。
失業手当をもらいながら、ふらふらしてました。
家の周りにコンビニすらないので、(徒歩30分くらい先にあるけどw)すべて車移動です。
少しでもお酒を飲んだら家から出られなくなります。大好きな飲み歩きなんて絶対できません。
駅まで徒歩40分。ほとんどのお店は24時前には閉店。東京と比べ娯楽が少なすぎる。
何もすることがなく、フラストレーションが溜まりまくる半年間を過ごしました。
この期間が辛すぎて、実家で胃腸を壊し、胃カメラと大腸カメラの検査を受けたのは良いネタです。休養先で体調を崩すという、もはやどうにもならなかったです。笑
さすがに岡山で体調を崩しては意味がないので、東京に戻ることを決めました。
バックオフィス全般の責任者をしてほしい。という企業を東京で見つけ、岡山を脱出することにしました。
そして、岡山脱出の1週間前の2018年7月6日の深夜。中国地方を豪雨が襲いました。
岡山、広島の一部は川が氾濫し、水没しました。
そして、私の実家も水没しました。自分の荷物は2階で引越しのために整理していたので無事でした。が、7月7日の早朝に車屋が引き取りに来る予定の車(売却決定済みだった)が水没。
東京への引っ越し代(=車)が水に沈んだので、わずかしかない貯金を切り崩して東京に戻ってきました。
2階部分は無事だったので、家族全員が2階で生活したのは良い思い出です。
その時、「生きる」ことの大切さを実感しました。
「いま、死んでも後悔のない人生」を送ろうと思いました。
水位が上がってくる中「あ、まだ死ねないな。やってないことばかりや」と本気で思いました。
コロナの影響下でも前向きなのも、「外資が倒産して死にかけ」「不眠症で死にかけ」「水没で死と直面」この経験があるからこそ、「死ぬ直前まで、死ぬ気でやりきってやろう」と本気で思っています。
 
【拡大期②】
東京でバックオフィスの責任者をやり、また、別のHRテックの会社で採用コンサルの仕事を頂きました。
HRテックの企業の方が非常に協力的で「エンジニアが応募した求人No,1」になれるような求人票を作成できました。2か月で約350名以上のエンジニア(デザイナー含む)から応募を頂きました。
これをもって、エンジニアとデザイナー採用は任せてください!と言えるようになりました。笑
そして、そこの社長からクライアントをご紹介頂きました。
一気に売上が2倍になり、手が回らないためにアシスタント(リモートワーク)に業務を渡すようになりました。
そして2019年5月に法人化。売上は個人の頃から最大6倍まで上がりました。
経営戦略会議から細かな採用代行業務まで。幅広く対応できる企業を作ることができました。
 
【創業後】
エグゼクティブ層、エンジニア、デザイナー、アパレル店員、など幅広く採用を手がけました。
ほとんどの企業で採用成功を収める一方、課題がありました。
・価格競争で負けること
・若手層(言い方が難しいですが、エグゼクティブ層の逆です)の成果が悪い
この2つが課題でした。
 
価格については、競合(実際は競合だと思っていないが)と業務レベルを比較した際、劣っているとは何一つ思わない。むしろ、ここまで踏み込んでコンサルから採用までやっている会社は見たことない。うちが一番良い採用コンサルだ。と自負する自信があったので、むしろ値上げしました。
それでも一部の企業からは感謝の声を頂きました。
 
若手層は苦手になりました。昔(ナンパ採用の頃)はできていたのですが、自分のスキルや思考回路の変化もあり、フィットしなくなったと判断しました。むしろ、年収5000万円など、エグゼクティブ層の方と対話できる自分がいました。
たぶん、多くの起業家と接し、自分自身も様々なことを学び、クライアントに向き合って本気でコンサルしているからこそ、エグゼクティブ層の方々とは話が合うようになったのだと思います。
そういった方(責任者クラス)の採用にも年間で20名以上成功しました。
何より、私は不器用なのでハイキャリアと若手の両方をやることはできない。ということを学びました。
 
【現在への変化】
ベンチャー企業の経営をサポートするために、私が人事も総務も法務も経理もやる、という方針は必ずしも正しくないと思い始めました。
経営者の右腕になる方を採用した方が、事業が円滑に進むし、かつ、私のスキルを活かせると考えました。
そこで立ち上げたのがエグゼクティブ専門の採用コンサル事業です。
そして、それを発展させてエグゼクティブ専門の人材紹介事業(ヘッドハンティング)を立ち上げました。
弊社は、クライアント企業に向き合い、クライアント企業の課題を「人」から解決するためだけに存在しています。
 
【今後】
クライアント企業に向き合い続ける。クライアント企業の経営を人事からサポートする。
そんなことに本気で向き合って事業をやり続けたいと考えています。
常にクライアント企業に貢献することだけを考えて、事業を展開していく想定です。ヘッドハンターを増やし、困っている企業に対して、少しでも早くソリューションを提案していく。
それこそが経営者をサポートする最大の貢献だと今は信じています。
サラリーマン根性で働く人を弊社は欲していません。
相手は命をかけて、会社を伸ばそうとしている経営者です。
こっちがサラリーマン根性を出してしまっては、相手に対して失礼です。
経営者と同じ視座で課題を解決したい。大きな課題が解決できたら、その分の報酬を得たい。という経営者マインドの強い方と働きたいと思っています。
色んな会社を見て、顧客に向き合わない人もたくさん見てきました。(私も元々は向き合いきれていませんでした)
だからこそ、シンプルにお客様の課題を真剣に解決する会社。が存在しても良いんじゃないか。と信じて今日も仕事をしています。

個人的なことで言えば「いま死んでも良いや。やりたいことやったし。」って本気で思える人生にしたいなと思っています。
何が何でも、自分がやりたいと思ったことは絶対に実現させてやる。と本気で考えています。

長文失礼しました。
そして、言い回しが悪く、誰かを傷つけてしまう内容だったらすみません。
誰かを傷つけたい訳ではなく、あくまで近藤の仕事の歴史だと思って、ご理解頂けると助かります。