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2021.6.24【65限目】

コロナ禍の中で充実したことも多くあります

コロナという長いトンネルを通っている今、ふと気が付くと、身のまわりのことをする時間が多くなっていました。

カーテンを作り直したり、服やカバンを作ってみたり、絵を描いたり。

自分の好きなことをする心地いい時間が、不自由さの中にもありました。ゆっくりとした時間が流れていきます。


油絵との出会い

18年ほど前に足首の手術をし、病休をとった時の事です。

私は、大学時代に器械体操で右足首を痛め、それ以来いつも足首にテーピングをして運動をしていました。年を重ねていくにつれ、足首の周りの筋肉も衰え、よく捻挫をするようになり、足首の骨もずれてきたので、固定術という足首の手術を夏休みにしました。

その後、3か月の自宅療養が必要だったので、病休をとりました。せっかく家にいるのだから、何か普段できないことをしたいと思い、近くのカルチャーセンターに通い、コンピューターと習字と油絵を習う事にしました。最初は松葉杖をつきながら通いました。

油絵の教室は、1回目は無料体験で授業を受けました。その時一緒だった人と入会することにして、楽しく学ぶことが出来ました。

3か月が経ち、続けたいと思いましたが、学校へ戻ると続けることが出来ません。残念な気持ちになっていたら、先生が、土曜日に他の場所で教室を開いていると聞き、一緒に入会した人と続けることにしました。

あれから18年目になります。今は月に2回土曜日に8人の仲間と描いています。その中には夫もいます。

私が絵を描いていたら、夫は、雨の日にテニスもゴルフも出来ないので、絵を描いてみたいから、私に絵を教えてと、言いますので、それだったら一緒に習ったら?と、いう事で、夫も描き始めました。今は、私より熱心です。


個性を大切に

こんなに長い間続いたのも、先生が、一人ひとりの個性を大切に指導してくださるからだと思います。同じ教材を描いているのですが、それぞれの個性が出て、同じような絵にならないので面白いです。

わたしと夫が同じ課題にならないように二種類の教材を用意してくださる時もあります。一年半ごとに作品展もあり目標を持って楽しく描いています。

先生の指導の中で、一人一人の個性を大切にしてそしていい所を褒めてくださいます。認めて、褒めて頂くと自信になり、自分の描きたい表現をみんなのびのび描き楽しい時間になっています。

教師をしていた時も、子どもは、一人ひとり個性が豊かです。その個性を伸ばし、生き生きとした子どもに成長してほしいと思って、子どものいい所を見つけ、褒めて育てるという事を実践してきましたが、絵の指導も同じだなあと感じています。子育ても同じだと思います。


母の子育て

子どものころ、母が手仕事をしている時、母の横でそれを見ているのが好きでした。それはお料理作りや私と妹の洋服づくりや編み物など、母は、手先が器用でした。時々私に作り方を教えてくれて、一緒に作りました。

母は、近所の友人で洋裁をしている人がいて、時々夜の片付けが終ったら、洋裁を習いに行っていました。

私が中学校に入学するとき「おかあちゃんが制服を縫ってあげる。」と言って、そのお友達のところに通って作り始めました。

ところが、入学式に間に合わず、私は、お気に入りの緑色のワンピースを着て登校しまた。時代も、昭和35年頃で、制服を着てこない子がいても今ほどびっくりするようなことではなかったかもしれませんが、周りはちょっと変だと思った事でしょう。私の子育てではこんな大胆なことはできませんが・・・。

今思うと、その時の私は、普通に学校へ行き、「制服は今、母が作ってくれている。」と、言い、三日間ほど私服で登校しました。それでいじめられることもなく、無事に制服も出来、それを三年間誇らしく思いながら着ました。冬は、コートも作ってくれて、私のお気に入りでした。

考えて見ると、私服がいやで、不登校にもならず、学校に行けたのは、母が私の為に作ってくれているという気持ちが分かっていたから、母の作ってあげたいという愛情があったからだと思います。

困難なことに直面した時も、なんとかなる。大丈夫。と、思えるのは、こんな母の大胆な子育てから、育てられた心かもしれないと思う時があります。

その後、高校・大学の制服も母が作り、両方とも入学式に間に合いました。母の手作りの制服を着た母の子供は、楽しい学校生活をおくりました。

このコロナ禍で、手仕事を楽しんでいる私は、母の愛情いっぱいの子育てのおかげかもしれません。感謝です。

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【編集担当より】
個性というのは、内発的なものなのか、相対的に理解するものなのか、はたまた生まれ持ったものなのか。何が正解かわかりませんが、以前に比べると、個々人の在り方を尊重していこうという世の中の流れは感じます。それは、たいへん健全なことかと思います。

学生のころ、思春期、社会に出て、若者と呼ばれる時代には、ありたい自分になろうとあがくものでしょうか。自己実現の欲求ということをビジネスでもよく耳にします。マズローの言う欲求の分類では、社会的欲求や承認欲求が満たされ、その自己実現の欲求に至ると聞いた気がします。

個人的には、若いころは、自己実現の欲求を望み過ぎ、企業や社会に帰属し認められることを軽視していたようにも思います。なんでこんなことしないといけないんだろう、上司はなぜあんな無駄なことをしているんだろうと、本当にダメな若者でした。しかしながら、周りの皆様の熱く厳しい叱咤激励により、20代30代をぼろぼろになりながらも充実した日々をすごし、成長できたように思います。

こういったことを書くと前時代的だと言われますが、自己実現を望む前に、まずは社会に馴染み・なにかしらの(なんでもいいので)成功体験を積むことが、結果的に成長し早く自分のしたいことに取り組める近道かと最近思います。まずはわからないまま、いやいやながらでも、とりあえず前向きに"まねる"からは初めてみるのもいいかもしれません。(たくさんの自戒を込めて)周囲は、その成功のステップをたくさん用意し温かく見守る心が大事ではないかと思いもします。それが簡単にできないことではありますが。

このnoteもそんな気持ちで始めました。




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