書評:酒井正『日本のセーフティーネット格差』(経セミ2020年6・7月号より)

酒井正 [著]
日本のセーフティーネット格差:労働市場の変容と社会保険

(慶應義塾大学出版会、2020年2月発売、四六判、352ページ、税別2700円)

評者:勇上和史(ゆうがみ・かずふみ)
神戸大学大学院経済学研究科准教授

社会保障の軋みを明らかにし
今後の展望を世に問うた力作


学問の専門化や細分化が進行するなかでも、現実の経済問題への接近は、各領域に係る深い理解を要請する。とりわけ雇用慣行や社会保障のあり方を巡っては、各制度の機能に係る研究蓄積と政策目的に照らした慎重な考察が求められる。本書は、長らく労働経済学と社会保障の2つの領域にまたがる研究を積み重ねてきた著者が、「就業」を切り口として日本の社会保障の軋みを明らかにするとともに、今後の展望を世に問うた労作である。

本書の基本的な認識は、「日本の労働市場の構造調整や労働市場への(新たな労働力の)包摂が非正規雇用という形で生じてしまったこと」が、人々の間でセーフティーネットの格差を顕在化させたというものであり、この課題に係る多くの研究と問題意識を共有している。そのうえで本書の特色は、セーフティーネットの対象範囲の拡大という現実に取られた対応策に潜む陥穽と、政策の有効性を巡るさまざまな論点を、著者自身の研究業績を含む国内外の知見に基づいて丁寧に明らかにした点にある。そのうえで、「ユニバーサルなセーフティーネットとは何か」という本書の問いに対して、きわめて抑制的なトーンながら著者の思考の帰結が述べられている。

具体的に、本書が検証対象とする社会保険制度は、公的医療保険、公的年金、介護保険ならびに労働保険と多岐にわたる。また、国民皆保険の綻びや労働市場への新たな「包摂」がもたらした課題を明らかにするため、社会保険料の未納問題(第1章)や雇用保険の受給実態(第2章)、仕事と育児の両立支援(第3章)、高齢者の就業促進(第4章)、若年層の就労支援(第6章)などの具体的なトピックが俎上に上げられている。ここでは、紙幅の都合上、本書の主題を巡る慎重な思考を経て開陳された、著者の考えを要約するにとどめたい。

第1に、巷間主張される雇用慣行の改革論は、それ自体が公的なセーフティーネットを目的としていないことに加えて、社会保険料の帰着問題に係る知見(第5章)を踏まえれば、労働者自身に不利益をもたらす懸念がある。

第2に、現役世代のセーフティーネットの強化に際しては、制度のカバー率や給付水準といった複数の評価軸で評価するとともに、政策の「漏れ」や意図せざる結果、制度の効果の異質性などの多面的な評価が必要である。

第3に、雇用形態に起因するセーフティーネット格差の救済要件は、雇用経験(保険料拠出)を条件としない給付を行うものとすべきである。

第4に、政策の合意形成におけるエビデンスの限定的な役割を踏まえつつ(第7章)、セーフティーネットの複眼的評価や優先順位を議論する上でのエビデンスの役割と合意形成のあり方が論じられる。

本書の主な目的は、その表題が示す通り、雇用社会の変化によって露見したセーフティーネット格差の是正を巡る論点を明らかにすることにある。そのため、是正すべきは格差のみなのか(「盤石な」セーフティーネットは本当に盤石だったのか)、あるいは個人(家族)と国家の間に位置する中間結社のセーフティーネットの機能と可能性をどのように考えるのかといった論点の検討は残る。しかしながら、わかりやすい万能薬はなく、多面的な検証とエビデンスをよすがとして、問題に何とか対処するための「智恵」を身につけるべきという(評者には読める)本書のメッセージは、関連分野の研究者のみならず、セーフティーネットに関わる実務家にとっても重要なものであり、広く手に取って読まれるべき良書である。

『経済セミナー』2020年6・7月号より転載。

同号の特集部分は以下の電子ブックでご覧いただけます!

主な目次:『日本のセーフティーネット格差』

序章 日本の労働市場と社会保険制度との関係
 1 労働市場の変化を捉える二つの要素
 2 わが国の社会保障制度の現状
 3 各種の社会保険の概要とその背景
 4 所得再分配の実際
 【コラム】「雇用の流動化」の諸相
第1章 雇用の流動化が社会保険に突きつける課題①――社会保険料の未納問題
 1 「皆保険」なのになぜ未納者がいるのか
 2 未納はなぜ問題なのか
 3 未納問題の解決策
第2章 雇用の流動化が社会保険に突きつける課題②――雇用保険の受給実態
 1 失業保険とは何か
 2 雇用保険の仕組み
 3 失業者は雇用保険によって救済されているか
 4 失業給付は何の役に立っているのか
 5 失業保険がもたらすその他の「モラルハザード」
 6 雇用保険が抱える課題
 【コラム】雇用保険料と雇用保険財政
第3章 セーフティーネットとしての両立支援策
 1 仕事と育児の両立の現状
 2 誰に子どもを預けているのか
 3 保育園問題の現在
 4 育児休業
 5 本当に必要な両立支援策
 【コラム】なぜ少子化対策が必要なのか
第4章 高齢者の就業と社会保険
 1 高齢者の就業を促進する政策
 2 就業者の高齢化の「コスト」――労働災害
 3 労災保険のあり方
 4 高齢者の就業に影響を与える家族要因
 【コラム】雇用形態や業種と労災保険
 【コラム】「肩車型社会」と高齢者の定義
第5章 社会保険料の「事業主負担」の本当のコスト
 1 事業主が負担する社会保険料
 2 「事業主負担」に対する経済学の考え方
 3 事業主負担の転嫁の実際 
 4 事業主負担の帰着を把握することはなぜ重要なのか
第6章 若年層のセーフティーネットを考える――就労支援はセーフティーネットになり得るか
 1 若年層の失業
 2 烙印効果の検証
 3 就労支援の問題
 4 日本における若年雇用対策のあり方
 【コラム】なぜ不況時に平均勤続年数が延びるのか
第7章 政策のあり方をめぐって――EBPM は社会保障政策にとって有効か
 1 経済政策とEBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)
 2 「複数のエビデンス」という問題
 3 政策決定過程とエビデンス
 4 社会保障政策のどの部分にエビデンスが活かされるべきか
終章 セーフティーネット機能を維持するために

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