写真家か、カメラマンか、技術者か

カメラを買った。
M10-Dという名前である。デジタルカメラなのに背面液晶が無いという、かなり異質なカメラだ。前のモデルや、フィルム時代の同じ形のカメラを使っていたおかげか、たった一日でも充分以上に体に馴染んだ気がする。
この機種についてのレビューを書くことがあるかもしれないが、それは使いこなせるようになってから…とにかくカメラを買ったという事がきっかけでこれを書いている。

カメラを手に入れて丸一日、テスト撮影をした。各種設定をいじり、シャッターを切った。アプリを開き、パソコンで読み取り、吐き出された絵を確認してみた。そうして再確認したのは、私は写真そのものよりも、カメラと撮影が好きだということだ。

世を驚かすような作品を撮る人は言う、どんなカメラだって関係ない。自分の作品を作るための道具だと。人の記憶に残るような作品を撮る人は言う、このカメラは私の体の延長だと。またこだわりの強い人たちは言うだろう、デジタルではフィルムの味には勝てないよと。
なるほどそれは、そうなのかもしれない。

しかし、私はあくまでカメラが好きで、フレーミングが好きで、シャッターを押すのが好きな人間のようで、作品を作ることよりも、撮影という行為そのものに愛着が強くある。
道具として使いこなせれば嬉しいし、現像の時にイメージ通りの絵が出来れば万々歳だ、そこに作品としての出来は介在していない。想定と、実践と、結果だけがそこにはある。

センスは無い。目新しい技術には興味はあるし、率先してやってみたりはするが、あくまで人真似である。新しい事を自ら生み出す事は無いし、まず考えたことほとんどすらない。
しかし、所有しているカメラについて熟知し、何ができて何ができないのか、何が得意で、何が不得意なのか、自分で実験して知りたいし、人に聞かれたら答えられる人でありたいと思ってしまう。

私にとっての撮影は、そのものの良さを出す為の行為なのである。
カメラの性能を引き出し、被写体の持っているものを出す。
カメラの性能を超えた名作は望んでいないし、被写体を現実以上のものに昇華したいとも思っていない。
実に虚構が存在しづらい、ある意味では夢のない撮影をしている。楽しんでいる。いうなれば概念的スナップである。

前回の記事ではこう書いた。

写真とは、撮る側と見る側の同じ夢を見るという共同作業がうまく行った時のみ真を写すと。
その基準で言うなら、私の写真はまったくもって真を写していない。
客観的な事実のうち、私のエゴで、私が見せたい部分だけを、私の使いたい技術によって見せている。
(もちろん、仕事の時は別です。ご要望にお応えするように誠心誠意、頑張ります)

このご時世、スマートフォンのカメラは大変に性能が良い。アプリだって、下手な人がいじるフォトショップよりよほど上手く加工が出来る。SNSへの投稿も容易だ。
そんな時代に、デジタルカメラを使い、自分の趣味としてやっている撮影くらいは、誰の為にでもなく、誰に良いと思われる為でもなく、自分の快楽の為にあっても良いのでは無いかと、私は思う。


#エッセイ #写真 #ライカ #スナップ #M10−D #初期不良の為、買って二日でメンテ送り

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