【試し読み】『真理探究者たち──ある日本人の対話と省察』
明治期の催眠術ブームの仕掛け人にして超常現象の研究家、長く私塾を営み成田中学校校長も務めた教育家、ユニテリアン思想に傾倒した宗教家──等など、いくつもの顔を有した稀代の啓蒙家・竹内楠三(1867-1921)。
当社10月新刊『真理探求者たち──ある日本人の対話と省察』は、彼が晩年にドイツ語で著しドイツで出版された幻の思想小説の邦訳です。
今回は、本小説の内容・成立背景を監訳者の岩下眞好氏が解説した「監訳者あとがき」と、さらに政治思想史研究者・片山杜秀氏が日本近代思想史の潮流の中から解説する「解説 『真理探究者たち』への竹内楠三の道」から、それぞれ一部を公開します。ぜひご一読ください。
***
監訳者あとがき
竹内楠三『真理探究者たち──ある日本人の対話と省察』は、著者である竹内自身がドイツ語で書き下ろし、1923年にドイツの代表的な文芸出版社インゼル書店から出版された書物(X. Takeutschi, Die Wahrheitssucher, Gespräche und Betrachtungen eines Japaners)の翻訳である。岡倉天心の『茶の本』および『東洋の理想』や老子のドイツ語訳、ハンス・ベトゲの手になる編訳詩集『中国の笛』および『日本の春』などとともに、同社が当時刊行を進めていた東洋の文芸や思想を扱った一連の書物のうちのひとつであった。全16章からなる作品は、副題が示すように、登場人物たちの対話や省察をとおして著者みずからの思想形成の道筋を述べた思想小説、あるいは小説体の思想書というべきものとなっている。テーマは政治、経済、哲学、芸術、教育と、じつに幅広い。これらテーマをめぐって、当時の日本の現実と在るべき姿が、西欧の文化や思想との対比のもとに批判的に論じられてゆくが、最終的に物語は、西欧思想の限界をも超えた真理探究法の提示へと収斂してゆく。そうした書物をドイツ語で書いて西欧に向けて問題提起しようというのであるから、これは、じつに大胆かつ自負に富んだ試みであったと言える。しかも竹内は日本を出て留学した経験は一度もなく、ドイツ語を読み込み使いこなす優れた能力も自学自習によって身につけたものだった。
竹内楠三とは、いったいどのような人物であったのだろうか。日本でも、また、かつて原書が刊行されたドイツでも、当作品の存在どころか、竹内楠三その人の名前すら、今やほとんど忘れ去られてしまっている。しかも、その生涯を詳らかにたどるには、あまりにも資料に乏しい。序文として小説の冒頭に置かれている当時の駐日ドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフの著者紹介の文章が、竹内の生涯についてのおそらく唯一のまとまった記述であろう。それによれば、竹内楠三は1868年5月17日に、伊勢神宮から遠からぬ村に農家の息子として生まれたとされている。この生年には異説もあるものの、竹内の親友から直接に「この数奇な男の人生」を伝え聞いたというゾルフによる著者のプロフィールは、おおむね信用してよかろう。他の幾つかの資料から裏付けられる断片的な事実をこれに加えるかたちで、以下に竹内の生涯を概観しておこう。
故郷で基礎的な教育を受けたほか、神道系の教団で日本と中国の古来の文献に触れた竹内は、1885年に東京に出て、今度はキリスト教系の青山学院でキリスト教、倫理学、心理学を学んだが卒業せずに中退し、1893年に日本ユニテリアン協会が設けた神学校である東京自由神学校に入学した。キリスト教の唯一絶対性を否定する宗教的多元論に立つユニテリアンは、明治期日本に宣教師を送り、その寛容さゆえに当時の仏教徒とキリスト教徒との激しい対立を緩和し、両者を融和させることに貢献した。1895年には、竹内はユニテリアン誌『宗教』の編集にたずさわるようになった。ちなみに、明治期日本のユニテリアン運動と、一時彼らを強く支援した福澤諭吉との関係については土屋博政氏の『ユニテリアンと福澤諭吉』(慶應義塾大学出版会)に詳しい。なお、同書は、後述するオカルト関係以外の領域で竹内楠三の名前を論中に挙げている近年ほとんど唯一の文献である。
この間に竹内は独学を重ね、ドイツ語、英語、フランス語、ラテン語を習得し、すでに1891年頃からドイツ語とフランス語の私塾的な教室を開いていた。また、雑誌『日本主義』の初代編集人となり、雑録や時報欄に精力的に小論を発表した。同誌は、竹内楠三、井上哲次郎、元良勇次郎、湯本武比古を発起人とする大日本協会が主宰するものであった。竹内はさらに、1898年から1910年の間に次々と書物を著している。その数は編書や訳書も含めて優に十冊を超えるが、催眠術や千里眼や動物磁気学など、今日ではオカルトの領域に含められるものが半分以上を占める。
(続きは本書にて)
***
解説 『真理探究者たち』への竹内楠三の道
片山杜秀
キリスト教から日本主義へ
明治初頭は、時代の激変に伴い、生の基軸をどこに求めるべきなのか、日本人の価値観が著しく混乱した時代と言えます。身分社会が崩れる、封建制が壊れる、文明開化が進む、西洋近代流の合理主義が浸透する、伝統的な宗教・道徳・倫理の規範が後退する、国民や人類といったなじみの薄い新種の観念が急激に肥大化する。これらの要因が絡まって、新時代の人生の道を求める青年層を大いに彷徨わせてゆくことになります。竹内楠三はまさにそういう時代に青少年期を送った極めて興味深いひとりです。彼は1867(慶應3)年生まれ(一説では1868年とも。たとえば本書のゾルフの序文、そしてそれに基づいて書かれた岩下眞好先生の「監訳者あとがき」)。正岡子規や夏目漱石や幸田露伴、あるいは平沼騏一郎と同い年です。しかも生まれた場所が伊勢神宮の神域に属する、前山という山深いところでした。彼は生まれ育った環境のせいで、神道、それから仏教にも深い素養を培いますが、やはり開化の時代の新しい知を求め、いったんはキリスト教へとたどり着きます。東京に出て、今日の青山学院に学び、弘前での伝道生活を経て、1888(明治21)年には秋田美以教会(秋田楢山教会の前身)の伝道師となりました。
明治のキリスト教といってもいろいろで、東京英学校、東京英和学校、青山学院と名称の変わっていったミッション・スクールなら、プロテスタントのメソジスト派の流れに乗る学校になりますが、竹内は明治20年代のうちにユニテリアンの教えに惹かれていったようです。ユニテリアンの教えは明治20年前後から米国経由で日本に広まり、福澤諭吉などは日本の新しい国民道徳の形成に寄与しうる教えとして期待を寄せたくらいですが、そのユニテリアンにはキリスト教でありながらキリスト教を超脱したくらいのところがありました。人間には内なる神が居て、その神とはキリスト教徒ならキリスト教の神と思っているが、たとえば仏教なら人間の内に仏性があると教えているものがそこに重なるだろうということになる。つまり、人類は多様な宗教を持っていて、それぞれの神仏を至高の存在と崇めているけれど、究極的にはそれは唯一のもの(ユニティ)に還元されるという、一種のシンクレティズムでもあれば、新世界宗教的な可能性を宿しているのが、ユニテリアンのたどり着くひとつの考え方となりましょう。その意味で、人間の思考がひとつ究極的に行き着くべきところなのです。
でも竹内はそこで終われませんでした。繰り返せば竹内の青春期はすなわち日本人にとっての価値観のとてつもない流動期であり変革期です。大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されたのは1889(明治22)年で、教育勅語が渙発されたのは翌年の1890(明治23)年、そのまた翌年にキリスト教徒を揺り動かしたのが内村鑑三(1861〜1930)の不敬事件でした。キリスト者の内村は、キリスト教の神と、日本が天皇中心の国家だと謳う明治憲法、そしてそれを道徳律化した教育勅語とは矛盾しないのか、というところに悩んでしまう。日本国民にとっての絶対者とキリスト教徒にとっての絶対者が別々に現われてくる。しかし絶対者は唯一だから絶対者なので、二つ存在するというならどちらかを選ばないわけにはゆかない。そこで、国家エリートを養成する第一高等中学校(今日の東京大学の一部)の教師であった内村は、キリスト教の神を選んで、教育勅語奉答式で最敬礼を行わなかったとみなされ、不敬事件に発展しました。でも、同じキリスト者のつもりでも、ユニテリアンであればこの難所は突破できなくもありません。本地垂迹説とは違いますが、ユニテリアンなら異なるものが実は同体であるとの論理を持ち込めるからです。人類共通の神の相異なる相と把握すれば、キリスト教の神も天皇もどちらも絶対者と認めて矛盾しなくなる。実はユニティということで解決可能、それでめでたしめでたしになる。が、それでは、日本の国体の特質をあくまで万邦無比として世界人類に同化させたくない国粋主義者は納得しないでしょう。また、世界の現実は、ユニテリアン的な新しい宗教が誕生して世界を包括し、人類がそこに帰一する理想からは、あまりにも遠かったのです。結果、竹内はキリスト者から日本主義者に転じてゆきます。
(続きは本書にて)
***