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【編集者の本棚】金子守『ゲーム理論と蒟蒻問答』をめぐって

出版社で働く人はどんなことに関心を持ち、どんな本を読んでいるのでしょうか。出版会の中の人の本棚や頭の中を覗くようなつもりで、その一端をご覧ください。今回は主に経済書を担当している編集者・永田透さんです。

1 序

 時折読み返す本というものがあります。学生時代に読んだ本や、読むたびにその時の自分の関心に合わせて読み方が変わる本などですが、今回紹介したいのは、金子守『ゲーム理論と蒟蒻問答』(日本評論社、2003年)というちょっと不思議な本です。

 金子氏は世界的なゲーム理論家であり、普段は専門的な論文しか書かないので一般に知られてはいないでしょう。その彼が「戯曲形式(対話編といってもよいかも)」で書いた専門書が本書です。
 登場人物は、中年の大学教授(新月[しんげつ])、若手研究者(間占[まじめ])、大学院生(森々[もりもり])の3人で、研究室を舞台に経済学やゲーム理論のトピックを議論していくという趣向です。独特なイラスト(前岡伸英による)と、彼らのすっとぼけたキャラクターで、大学の研究室の日常を垣間見られる興味もあってすいすい読めます。でも内容は、がっつり専門的で、登場人物たちはガチで議論します。
 経済学の専門論文は、いまでは数式やデータで埋め尽くされたものがほとんどで、気軽に読むというにはほど遠いものです。専門外の人は概要ですら理解することが難しくなってしまっています。ところが本書は、基本的には専門書ですが、必ずしも中心的議論がわからなくても、完全に専門家ではない院生の森々くんのおかげで経済学をある程度かじっていればなんとなく見当がつきます。そうしたところも何度も読み返すことができる理由でしょう。

2 蒟蒻問答

 内容のすべてを紹介する余裕も力もありませんので、私が興味のある点にしぼって説明してみましょう。ちなみに「ゲーム理論」について不案内の方は、最近すぐれた入門書がたくさん出ていますので、それらを参照してください。ここではゲームの参加者である「プレイヤー」が相手の行動を予想して自分の行動を決めるということだけを頭においてください。
 この本のタイトルにある「蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)」とは、古典落語の演目からきています。廃寺の和尚になぜかなってしまった蒟蒻屋の六兵衛と、旅の禅僧が出会って禅問答するのですが、互いに自分勝手な理解で話し、議論がかみ合っていないのに勝負がつく、というお話です。この「蒟蒻問答」のような状態が学界でも起こっていることを例えているのです。
 実際、経済学(やゲーム理論)では、理論モデルの数学的な構造について互いに理解しあうことはできるのですが、その解釈をめぐって別の想定をして、議論がすれ違っているという場合がままあります。
 新月先生は、昔、活躍を期待されていたのだけど、いまは「うだつの上がらない」中年教授という設定です。アメリカ帰りの新進気鋭の研究者がやってきて学界のトレンドに沿った議論をしかけても、のらりくらりと「ソクラテス風」の問答ではぐらかし、逆に問いかけていきます。話が進むにしたがって間占くんや森々くんも新月先生の考えている問題に気付いていくという流れになっています。
 議論されるテーマの一つに「共通認識(common knowledge)」というゲーム理論で用いられる重要な概念があります。これは簡単にいうと、ある事象についてのプレイヤーの認識が何段階にも読み込まれて成り立っている状況です。例えば、会議の場で、誰かが発言したとする。すると「○○が△△という発言をした」という事象が、参加者の各々に理解され、その皆が理解したという事象も発言主によって理解され・・・という認識の階層が(理屈上無限に)成立する、という状況を指しています。これが成り立たないのは、例えばEメールで互いにやり取りしているときに「メールの件を了解しました」というメッセージを送りあうというあの状況を思い浮かべてください。
 この共通認識という概念をゲーム理論の多くのモデルでは仮定しているのですが、実際、この無限の認識の連なりというものは、ゲーム理論だけではなく、論理学(のなかの認識を扱っている認識論理)を用いないと具合が悪くなることを新月先生は示していきます。例えば、事象についての認識を互いに認識していると思っても、実は互いに別のことを想定している、つまり「蒟蒻問答」のようなことが起こっている可能性があることを示唆します。
つまりゲーム理論が本当はデリケートな問題を、仮定によって単純に「解決」してしまっているかもしれないのです

3 「コンヴェンション」

 さて前節のような議論を、戯曲とはいえ数式や論理式を用いて専門用語を用いて行っているので、専門家以外読みにくいと思われるかもしれませんが、(もちろんそれは事実なのですが)素人でも「蒟蒻問題」のような状況はすぐに思い当るのではないでしょうか。
 例えば、雑誌の対談などでよく感じるのですが、傍目からみても議論がかみ合っていないのに、「そうそう」と相槌をうちあっている場合など、それにあたるでしょう。互いに自分の想定した設定のなかで相手の議論を理解しているので、本人同士は話が通じ合っているように思えるのです。これは、互いに話して、しかも会話が成立していることがお互いわかっても共通認識が成立しているかどうかわからない例だと思います。このように、蒟蒻問答や共通認識などの現象は意外と日常の中で出会う現象だということがわかるでしょう(ちなみに落語のほうの蒟蒻問答の話はけっこう極端な設定ですが)。
 さて、この「common knowlegde」という言葉を最初に用いたのは、実はゲーム理論家ではなく、デイヴィド・ルイス(1941~2001)というアメリカの分析哲学者の『コンヴェンションーー哲学的研究』(瀧澤弘和訳、慶應義塾大学出版会、2021年)という本のなかでした。詳しくはこの翻訳の解説を御覧いただきたいのですが、ルイスのいう「共通知識(邦訳での訳語)」は、ゲーム理論で使われるそれとは少し違います。ルイスが考えようとした問題は、言語や哲学の真理が「コンヴェンション(黙約や規約などと訳されます)」であるかどうかという大きなものでした。そのためにまず人々が行動する際に、うまく一致させる(コーディネート)ために使われる認識の在り方を「共通知識」として考えました。コーディネーションとは、例えば、デートの約束をして待ち合わせ場所がわからなくなってしまった場合、落ち合うためにどうするか(今なら携帯で聞けば一発ですが)といった問題です。実はルイスはその理論を当時のゲーム理論(トマス・シェリングの理論)から借りてきています。ゲーム理論と哲学、これも重要なテーマなのですが、話が脱線しますので、これくらいにしておきましょう。

4 なぜ戯曲か

 さてすでに長くなってしまった議論を締めくくらないといけないのですが、なぜ『ゲーム理論と蒟蒻問答』という本が面白いのかというと、論じられている内容もさることながら、戯曲という形式そのものに興味があるからです。
 戯曲は、実際に発声される言葉と動作によってすべてを表現する芸術です。さらに劇場において観客の面前で上演されるところに最大の特徴があります。この演劇の構造が、先ほど説明した「共通知識」の形成にも大きく関係しています。人間は、共通認識を成立させるために、例えば会議(コンヴェンションには「会議」という意味もあります)、儀式、議会などの仕組みを創りあげてきました。宗教的な祭式が起源にある演劇もそのひとつです。戯曲によって上演される事象はそのまま「共通知識」となります。
 『ゲーム理論と蒟蒻問答』が用いた戯曲というスタイルは、たんに話をわかりやすく読みやすくするためだけに採用されたのではなく、扱っているテーマそのものが人間の認識の在り方に深く関係しているのです。古来、哲学者たちが戯曲形式や対話編で本を書いてきたのもそのようなメタ的なメッセージがあるのではないかと思えるほどです。著者の金子氏がプラトンの対話編やアリストパネスの喜劇を意識して書いたといいますが十分うなずけます。
 専門化の隘路に陥りつつある学問に対して、戯曲というスタイルを用いて大胆な問題提起を行ったこの作品に、私はたいへん感銘を受けたのです。

#慶應義塾大学出版会 #ゲーム理論 #コンヴェンション #編集者 #経済学

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