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春ちゃん

今の私しか知らない人にはなかなか信じてもらえないけれど、

私は小学校の半分と中学校全て、登校拒否をしていた。

小学生時代そもそもはいじめが原因だったが、後半は学校へ行けなくなって同級生に馴染めなくて

そのままズルズル登校拒否をしてしまったような気がする。

中学へ通うことがままならなくて、学力が落ちる一方ではあったが、

不登校児童を救済するようなプログラムがあり、

とある小学校の一角に建った小屋で定年退職された先生が勉強を教えてくれていた。

当時の私は「学校」という場所へ行くことに対してハードルが高くて、その施設へ向かう時

たまに小学校の休憩時間などで校庭にわんさか児童が溢れていると怖くて入れず、

家に電話してその先生へ連絡がいき、迎えにきてもらうというまだるっこしいこともしばしばあった。


それでもなんとか勉強を教えてもらいながら過ごすことができた。

いまだに歳上の人の方が得意なのはこういった環境もあったのかもしれない。

そんな中学3年の頃、今後のことについて話をした。

年老いた男性の先生は、厳しそうな顔をしながら、しかし優しい口調で説いてくれたのだった。


「今の状況では普通高校へ通うことはなかなか難しいと思う。

あなたの選択肢として、夜間高校と通信制高校というものがある。

一度見学へ行ってみてはどうだろう。」


自分の進路のことなのにぼんやりと聞いていた。


その後母にも話がなされたのか、私は母と一緒に夜間高校へ見学に行った。


さまざまな人がいるとはいえ、大半は派手で若い生徒ばかりで自分が毎日ここへ通うことができるだろうか、

とても不安になった。

ましてや毎日学校へ行っていない身、余計気持ちは遠のくのであった。

手応えを感じていないことを母も察したのか、夜間高校への進学はなくなり

自動的に通信制高校へ進学することになった。


通信制の高校は、月に2回ほど日曜日にスクーリングと呼ばれる授業があり、

その他の平日はレポートを郵送で提出するという形で高校卒業の資格を得ることができる。

その為、平日は通常の仕事を持っている人が通いやすい学校だった。

ずっと登校拒否していた私は、他人が傍にいる耐性がなかったので、この日曜のスクーリングが怖かった。

それでも踏み出さない他に道はなかったのだ。

若者も多かったが、同時に当時の私からみるとお爺さんお婆さんのような年代の方もいた。

高校生になろうとしていた当時、戦後で働かなくてはいけなくて

泣く泣く諦めた道を年を取ってからまた通ろうとするなんて、本当に尊敬できる人たちだと思った。

こういった方々が話しかけてくださって、心が和んだり、会話を勉強することもできた。


そして通い始めて気づいた。

この学校には昼職のある人ばかりがいるわけではない。

私と同じように登校拒否してしまった子供たちもいるのだ。

そこで同じ境遇だった友達を作ることができた。

ただ、その友達はどうしてもこの環境についていけず、最初の頃は休みがちだった。

私もできれば行きたくはない。だが、行くしかなかった。


そこでまた気づいたのだ。

この学校には在日コリアンのティーンたちもいる。

在日コリアンの話はとてもセンシティブである。

私も詳しくはわからないが、なんとなく理解している。


在日コリアンの子供たちは自動的に朝鮮学校へ進む。

朝鮮学校は中学校までの卒業資格は得ることができるが、高校は得ることができない。

朝鮮学校へ通いながら、日本の高校の通信制にも在籍することで日本でも通用する高卒の資格を取って

生きていく術を得ているのだということ。


学年のクラス分けされた中に1/3の人数が在日コリアンたちだった。

大体が固まっているので、あまり私は会話をしたことがない。


ある日、出欠を取るために担任の先生が名前を呼ぶ。

日本の先生なのでどうしても日本読みになるのだが、

おそらく親御さんが日本でも馴染めるようにと日本にいてもおかしくない名前の女の子がいて、そのまま呼ばれていた。

ある時、急に朝鮮読みで呼んでくれと言い出した。

きっとあの塊の中、居心地が悪かったのだろう。


少しずつ在日コリアンの置かれている状況がわかってきた。


ただ、その中で1人私と仲良くなってくれた子がいた。


その子は春(しゅん)ちゃんと言った。

体育の時間で傍にいた、ただそれだけだったが、笑顔でちょっとしたことを話せたことが自分の心に響いたのだ。

聞いてみると春ちゃんは私と同じ区に住んでいて、家族でやっているお店を手伝っていた。


在日コリアンに対しての偏見など私にはなかったので特に気にしていなかったが、春ちゃん自身はとても気にしていた。


同じ韓国人なのに、同じクラスの子たちとはあまり会話していない。

春ちゃんは朝鮮学校の制度に思うことがあって、中学を卒業した後学校をやめたのだと言った。

高校へ通えと先生からも圧力があったが、それを振り切ってやめたと言っていた。

その後改めて通信制へ入学したので、朝鮮学校の子たちからは敬遠されていたのだと思う。


生きている環境が違った、それぐらいの気持ちで考えていた。

ある音楽の授業。

一向に静かにならないクラス全員に向かって、音楽の先生が放った言葉が忘れられない。


「静かにしなさい!チョウコウセイじゃあるまいし!!」


一瞬にして静まったが次の瞬間に

「それどういうことですか!?」と男性の怒った声が響いたのだ。


チョウコウセイという言葉がわからなかった私は隣の春ちゃんにこっそり聞いたのだ。

春ちゃんはバツが悪そうに「朝鮮学校生のことだよ…」と呟いた。


ここで初めて大人の在日コリアンに対しての差別や偏見を垣間見たのだった。


私はそれでも春ちゃんに対してそんな事は一切思わなかった。

色々な話をした。

家が近かったので、よく会ってご飯を食べたりライブへ行ったりもした。

好きな映画を一緒に見に行ったり、まるで私にとって初めてできた恋人のようだった。


今まで友達という友達がいなかったせいか、距離の取り方がわからなかった。

おそらくズカズカと、春ちゃんの中に入り込んでしまっていたのだと思う。


少し経つと他の友達がまた別な友達を連れてきて、輪が広がった。

春ちゃんも優しくて会話が好きなので、その友達と仲良くなったりする。

私は恥ずかしながら嫉妬したのだった。


ある時春ちゃんが好きなアーティストの話になり、私はそこまで好きではなかったけれど

他の友達が「私も大好き!」と言い出した。

あれよあれよといううちに私よりもその子と遊ぶ頻度が増えて、私は春ちゃんと遊ぶことができなくなっていった。

(後々聞いた話ではあるが、その子は話を合わせる為に嘘をついたらしく、実際はそこまで好きではなかったそうだ。)


私は今思えば、本当に距離ナシのキモい女子だったと思う。

遊べなくなって、ヤキモキしてやっと春ちゃんと会った時に泣き出してしまったのだ。

春ちゃんはドン引き…


それ以降、春ちゃんと連絡を取ることも憚れて、気づいた時には春ちゃんとクラスが変わってしまい、

それ以来どうしていたのかはわからなくなってしまった。


通信制高校は4年制ではあるが、単位を取ることができれば3年でも卒業することができる。

おそらく先に単位を取って、春ちゃんは卒業して行ったのだと思う。


私はというとのんびり高校で4年を過ごした。

3年、4年となった時には他に仲のいい友達ができてしまい、春ちゃんの事はすっかり考えることも無くなった。


春ちゃんと友達だった頃は携帯も持っていなくて、電話するとなると大体が家電だった。

電話をかけて出た人が春ちゃんだと思ってペラペラ喋っていたら、実はお姉さんだったこともあった。

本当にたわいもない話を何時間でも会話していたように思う。

いつか春ちゃんのやっているお店へ食べに行くよと伝えて、それっきりだった。


私が4年で卒業した時、謝恩会があってそこに参加した。

そして、知らない男性に声をかけられた。

春ちゃんの彼氏だと言われた。

本当は春ちゃんも参加したいと思っていたらしいのだが、予定が合わず参加できなかったとのこと。

一番びっくりしたのは、春ちゃんが私を覚えていてくれて、更にまた会いたいと思っていてくれたこと。

その彼氏さんに何を話したのかはもう忘れた。

びっくりし過ぎて何も言えなかったのかもしれない。


春ちゃんの携帯番号はわからない。

高校で出会ってから、25年が経とうとしている。

今、春ちゃんは何をしているのだろう。

元気で幸せでいて暮れればそれでいいと思う。

でも、また会いたいとも思う。

今度はちゃんと距離を保って、ドン引きさせないようにするから、もう一度友達をやり直してほしいと思うのだった。

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