先生の本音

「笑いたくない時には、笑わなくていい、と先生は思います。」
小学校2年生のある日のおわりの会で、吉岡先生はそう言った。
吉岡先生は、当時30代半くらいで、ちょっとポチャッとした、教育テレビに出ていた「はに丸」みたいな顔をしたやさしい女の先生だった。
何の話の流れで、そういう言葉が出てきたのか、覚えていないし、その後どんな話を続けたのかも覚えていない。

ただ、吉岡先生の言葉をみんな静かに聞いていたことと、
少しうつむいた先生の顔はよく覚えている。

「笑いたくない時は、笑わなくていい。」
この言葉の意味は、小学校2年生の私には、正直言って、よくわからなかった。
ただ、学校では、元気がいいこと、明るいこと、活発なこと、が褒められることだと思っていたから、そうじゃなくてもいい、という先生の言葉は、なんかすごいことを聞いてしまった気がして鮮烈に胸に残った。

あれから25年がたち、自分も30代を迎え、仕事を続けていく中で、ときおり吉岡先生の言葉を思い出す。
「笑いたくない時は、笑わなくていい。」
思い出すのはいつだって、つらいとき、押しつぶされそうな時だ。
社会に出ると個人的な感情を顔に出すことはタブー。泣くなんてもってのほかで、自分の感情をコントロールできない、扱いにくい人材とみなされる。
どんな時もスマートに冷静に、個人的な感情を持ち出さない人のほうが評価される。

それでも、つらいとき、くやしいとき、ふがいないとき、やるせないとき、私は感情を抑えることができなくて、思わずトイレに駆け込んで泣いてしまったりする。
そして、30もすぎて会社で泣いている自分に対してひどく落ち込む。
流れている涙が、自分が社会人としてダメな人間の証拠な気がして、泣くほどに自分を責めてしまい、さらに涙が止まらなくなる。

ふと、もしかしたら、先生は子どもたちに言っていたのではなく、自分自身にその言葉をかけていたのかもしれない、と思った。

今ならわかる、どんなに年齢を重ねても、人間はずっと揺れながら生きている。迷って、悩んで、間違って、蛇行しながらでしか前に進めない。
吉岡先生もきっとそうだったのだろう、そして子どもたちの前で、少しうつむきながら、話をしたのだろう。自分の本当の気持ち、弱さを、子どもの前で見せたのだろう。
それが教育者として良いとか、悪いとかは、私にはわからない。でも、少なくとも私にとっては、正しいことを説いてきた先生よりも、人間としての弱さを見せてくれた吉岡先生のほうが、何倍も私の心に染み入るあたたかい経験をくれている。

弱さに打ち勝つ強さも大事だ。
でも、弱さをもっているということが、だれかの心を照らすことにもになる。私は自分の弱さも大事にしたい。

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